買研究論文

(目次)
Ⅰ はじめにー本稿の課題・手法とその研究史的意義ー
Ⅱ 律令制的地方行政機構の特質ー律令法における「人格的身分的結合関係」・「意識の内部の支配」・「単一的支配」-
Ⅲ 律令制的地方行政機構の展開(1)ー七〇一~七二三年(大宝~神亀期)ー
Ⅳ 律令制的地方行政機構の展開(2)-七二四~七四八年(天平期)-
Ⅴ 律令制的地方行政機構の展開(3)-七四九~七六九年(天平勝宝~神護景雲期)-
Ⅵ 律令制的地方行政機構の展開(4)-七七〇~七八〇年(宝亀期)ー
Ⅶ 律令制的地方行政機構の展開(5)ー七八一~八〇九年(天応~大同期)ー
Ⅷ 八世紀における地方行政機構の展開過程ー小結ー
Ⅸ 地方行政機構の特質・展開と律令制国家ー「組織された強力」・「人格的身分的結合関係」・「中央集権国家」像ー
Ⅹ 結びー今後の課題ー. である。
 言うまでもなく、この問題は(α)「人格的身分的結合関係」の「基本的政策課題」における位置付けの問題である。
 そして、前半期の(Ⅱ)地方行政機構の維持・運営の在り方は(α)「人格的身分的結合関係」を基軸にしていた。
 とすれば、後者の行き詰まりは、前者の「基本的政策課題」における(α)「人格的身分的結合関係」の位置の低下及びその転換と有機的連関を有すると考えられる。
 したがって、「支配層の『基本的政策課題』の、前半期から後半期への転換」の背景として、かかる行き詰まりを上げることは十分に可能と考えられる。. を指摘できる。
 なお、各規律については次項以下で検討するが、表2-Bによれば「事に随い科断」(表2-Aー№1)、「法により科附せよ」(表2-Aー№5)のような、規律の内容を明示しない、法の発動の一般的表現(以下、「一般的表現」)が五例、確認できることを、あらかじめ指摘しておきたい。

・(ア)律の規定

 前述のように、表1における規律の発動命令三例は、すべてが(ア)律の規定の発動である。
 次に表2ーA・Bについて。
 表2ーA・Bにおいては、(ア)律の規定の発動を明示した事例が二例確認できる((№7*34)・21。ただし、№21は「恩寵」により適用が免除されている)。
 後述のように、このような事例は、第Ⅱ・Ⅲ期には見出せず、第Ⅳ期には見えるのは特殊事例か、あくまで可能性を示すものである*35)。
 したがって、規律発動の個別事例において、(ア)律の規定の発動を明示する事例が確認できるのは、第Ⅰ期の特徴として注目されてよい。
 また、前述の「一般的表現」の中にも、「(罪については)重きを以て論ず」(表2ーAー№6)、「顕戮を加う」(表2ーAー№13)、「節級して罪を科せ」(表2ーAー№14)、といった(ア)律の規定発動の可能性が高い文言を見出せる。そもそも、他の規律の発動数・累積が少ない第Ⅰ期においては、これらの「一般的表現」が実際には(ア)律の規定の発動を示している割合は、他の期に比べて高いものと考えられる。
 第Ⅰ期においては、. を把握することである。
 この課題は、本質的には「権限配分に関する意識的・計画的原則」(以下、「原則」*1))に基づく権力組織が、この列島の地方の場において唐からいかに継受され、展開していくかを把握することに他ならない。
 なお、本来、この課題に対応するには平安期まで含めた分析が必要だが、作業が膨大になったため、今回は八世紀を主とする分析に留めた。
 関連する研究は枚挙にいとまがないが、同じ理由で言及は最小限に留めた。ご了承願いたい。
 また、正史の引用については煩瑣を避けるため、基本的に出典を省略の上、条文名のみを示し*2)、史料の年次があらかじめ示されている場合には原則としてこれも省略することにした。
 また、律令制国家の地方行政機構には大宰府なども含まれるが、本稿では国・郡を主たる検討対象とし、後述の手法から国郡司制の分析を通して上述の課題に接近することにする。

(2)本稿の手法

 本稿で、この課題に対応するための手法は、国郡司制における.  以上の諸研究によって、個別的事実についての認識は深化されたと言える。
 しかしながら、早川が本来、問題にしたこの時期における天皇制の「権威と権力」の在り方については提起がなく、問題が個別的論点に矮小化している傾向を指摘できる。
 例えば、(1)は早川の先の評価を継承するが、「中国的皇帝」の内実については、桓武が唐の太宗を君主の理想としたとの指摘に留まる。
 (2)も皇統意識の専論と言ってよい。
 (3)は皇位継承などの在り方について独自の知見を示すが、継承される「権威と権力」の在り方について正面から論じているわけではない。
 (4)の昊天祭祀は神祇令に継受されず、河内が指摘するように「国家祭祀が支配の思想的基盤に位置するためにその改変がきわめて困難であった」(三〇頁)ことからすれば、桓武朝に始まるその挙行は天皇の権威の変質と関わる問題と見られる。しかし河内論文においては、論点が「皇位の安定化と直系継承」という天皇における権力維持(広い意味での権力闘争)に収斂されている。
 もとより、本稿も主題の関係もあって、この時期の天皇制とその「権威と権力」の在り方について独自の知見を提示することは不可能である。
 そこで、ここでは本稿の検討結果をも踏まえて、早川説の基本的問題を指摘しておきたい。早川の提起を受け、上記の問題に迫る上での前提となると考えられるからである。
 第一に、歴史的評価が桓武個人の「政治的理念」の追求を以て下されており、支配層の全体的意思・歴史的特質による規定性・拘束性が無視されていることである。
 その原因は、桓武の歴史的評価の前提となる君主制の基本的認識が踏まえられていないことと考えられる。
 そもそも、君主は支配層を離れて自己運動することができない(石母田「第Ⅰ章」註(1)書、三六三頁)。君主とは支配層が「共同利害」を維持するために擁立した存在なのであり、いかに専制的であってもこの性格から逸脱することはできない。
 しかし、早川説ではこの基本的前提が無視されている。早川の既述の評価は天皇と貴族層との権力的な対抗関係の追究に基づいており、後者の前者に対する屈服の結果、桓武が「絶対的な権威と権力」を追求するに至るとされる。桓武朝における後者の前者に対する規定性・拘束性は、事実上、否定されている。
 しかし、既述の君主制の性格は権力闘争によって消滅する性格のものではなく、桓武が直面した課題も支配層の「共同利害」の維持であったはずである。彼の強大な権力はあくまでこの課題の克服のために存在するのであって、貴族を上層部とする支配層の全体的意思・歴史的特質による規定性・拘束性から逃れることはできない。
 この点は、彼自身の「政治的理念」・思惟もこのような規定性・拘束性の中に存在することをも意味する。
  まず、彼の「政治的理念」自体がこのような規定性・拘束性の中に存在する。
 このような「理念」は彼個人が抱いたものであったとしても、あくまで「共通利害」の維持という課題に対応するためのものであり、支配層の全体的意思・歴史的特質から離れて存在することはあり得ない。
 次に、彼の「政治的理念」を具現化するには政策化による「国家意思」への転化が必要である。したがって、その意義が支配層全体に一定度、共有されねばならない。
 桓武が権力闘争の次元において貴族層を圧倒していたとしても、このような手続きの必要性が否定されるわけではなく、その意味で前記のような規定性・拘束性の中にあるのである(そもそも、このような規定性・拘束性の中にあるからこそ、権力闘争において貴族層を圧倒する必要があるのである)。
 さらに、仮に「政治的理念」において彼個人が自らを中国皇帝に擬したとしても、彼の思惟全体は日本の支配層の歴史的特質に規定されていると見るべきであろう。
 実際、その天命思想は、「革命」を天武系から天智系への交替に限定していたとされており(早川B論文)、これは天孫神話をイデオロギー的根拠とする、日本独自の天皇制の在り方(したがって、天皇に神的・超越的権威を与える良人共同体の在り方)に規定されていたためと考えられる。彼の「中国皇帝」志向はー仮に存在したとしてもー基本的にはその主観的自己認識と見るべきであろう。
 早川論文や(1)佐藤論文によって天命思想の影響が指摘されているにもかかわらず、(3)仁藤論文が指摘するように「新王朝理念」とは整合しない措置が見られることは、このような規定性・拘束性の所産と考えられる。
 桓武の「政治的理念」のみに注目し、このような規定性・拘束性を無視することは、天皇に対する歴史的評価の手法としては問題があるとせざるを得ない。
 第二に、早川の想定それ自体が本稿の検討結果と整合しない。
 まず、(1)「中国的な、律令法のたてまえとする絶対的な権威と権力をあわせもつ皇帝」の追求という想定自体が成立し難い。
 早川の想定する「皇帝」とは、畿内政権の政治的首長から脱却した天皇の姿である。
 すなわち、早川説では桓武朝において律令法導入時に存在した唐とは異なる日本の独自の特質が消滅したとされているのであり、だからこそそれは「中国的」とも称される。畿内政権論自体が成立し難いのは既に指摘のある通りだが(伊藤循「国家形成史研究の軌跡ー日本古代国家論の現状と課題ー」〔『歴史評論』五四六、一九九五年〕、同「畿内政権論争の軌跡とそのゆくえ」〔『歴史評論』六九三、二〇〇八年〕など参照)、ここでは早川の、このような桓武朝についての見解が問題となる。
 結論から言えば、それは成立しないと言わざるを得ない。
 後述のように、第Ⅴ期(桓武朝)における「基本的政策課題」は「行政の『相対的独立化』」であったと考えられるが、「人格的身分的結合関係」・良人共同体の意義を、政策的にも国家の基本的体制の問題としても否定するものではなかった(本項「5.小結」の「『行政の『相対的独立化』』と(α)『人格的身分的結合関係』」及び第Ⅷ章参照)。
 唐とは異なる日本独自の特質である「人格的身分的結合関係」・良人共同体に規定された政策を追求し、国家体制を維持する天皇制の在り方は、いかなる意味でも「中国的」ではなく、したがって(早川が想定するような意味での)「絶対的な権威と権力をあわせもつ」天皇とも言えない。
 また、これと関連し(2)桓武と大宝・養老律令との関係の理解に問題を指摘できる。
 早川によれば、桓武は大宝・養老律令が理念とした天皇制の在り方を具現化しようとしたということにならざるを得ない。
 しかし、桓武朝(第Ⅴ期)の「基本的政策課題」である「行政の『相対的独立化』」はそのような性格のものとは認められない。この課題は、新たな天皇制の模索とも関わるものと見られるが、(最終的な歴史的評価は措くとしても)大宝・養老律令施行による成果を踏まえつつも、それによる地方行政機構の維持・運営の行き詰まりを踏まえ、新たな課題に対応するものと見られるのであって(本稿第Ⅷ章)、大宝・養老律令の理念の具現化とは評価できない。
 法典編纂の問題においても、桓武が命じたのは形式上は養老律令の「付属法」に過ぎない格・式の編纂であり、それは、既述の桓武朝の課題と対応するものと考えるべきであろう。
 早川によれば、大宝律令は天皇と貴族との「妥協の産物」(一六〇頁)に過ぎないとされており、養老律令もその「限界」を大きく払拭できたと想定されているわけではない。仮に早川のこのような大宝・養老律令の想定に従うとしても、桓武はその「限界」を克服した新たな律令の編纂を命じたわけではなく、「付属法」の編纂に大宝・養老律令の理念の具現化を見出すのは無理であろう。
 以上のように、早川説自体は成立し難いと言わざるを得ない。
 ただし、筆者は桓武の「政治的理念」の追究の意義を否定しているわけではない。
 後述のように光仁即位の政治的意義は、「人格的身分的結合関係」における「政治的可変性」の可能性を考える上でも重要である。光仁自身が自らの即位の意義をどのように認識していたかは、この問題を考える上で有力な検討素材の一つであり、その後を襲った桓武においても同様である。
 既述のような規定性・拘束性の中で桓武がどのような「政治的理念」を抱いたかは地方行政機構の維持・運営の歴史的展開を考える上でも重要と言って良く、また、その検討は早川が問題とした天皇制における「権威と権力」の変質の把握につながるものと考える。
*15)三月丙申詔(以下、「三月丙申詔」)。
*16)延暦一七年(七九八)四月甲寅条。なお、ここで「国造の兵衛」が停止された理由については、必ずしも審らかにはできない。
 まず、確認すべきは、「延暦一七年制」の目的である「譜第」郡司の再生産の阻止について、この措置は一定度も寄与はするが、その意義は限定的であることである。
 当然ながら、「国造」は「譜第」の系譜に属する。ここでの「国造」は当然、所謂「新国造」であるが系譜としては「旧国造」に連なっており、この「旧国造」は評制施行時に基本的に評造に任用されたと見られるので(大化元年〔六四五〕八月庚子条。拙稿G参照)、「新国造」は「難波朝庭以還譜第重大」「立郡以来譜第重大」に該当するからである。
 また、兵衛は郡司子弟から選抜されており郡司に任用される場合がある(軍防令37兵衛考満条・同38兵衛条・『延喜式』式部上149諸衛任官条など)。
 とすれば、「譜第」でもある「国造の兵衛」を停止することは、「譜第」郡司の再生産の阻止に寄与する。
 しかし、「国造」は「譜第」の一部に過ぎない。「譜第」は「大化前代」の在地首長層のみならず、七世紀後半以降に台頭した新興首長層なども含むからである。
 とすれば、「譜第」郡司の再生産の阻止という観点からは、「国造の兵衛」の停止は限定的な意義しか持たない。兵衛制からのかかる再生産を全面的に阻止しようと思えば、本来、「国造の兵衛」だけでなく、「譜第」の系譜に属する兵衛全てを停止しなければならず、抜本的には兵衛の郡司子弟からの選抜か、その郡司への任用を停止しなければならない。
 にもかかわらず、なぜ、「国造の兵衛」だけが停止の対象となるのかは不明とせざるを得ない。
 差し当たり、嫡々相継制によって廃止されていたと見られる、選叙令13郡司条の本註「それ大領・少領は才用同じならば、まず国造を取れ」との関連も想定されるが、「延暦一七年制」は直ちに本註部の規定の復活を示すものではなく、兵衛の停止という形ではなく、この本註規定の廃止を明示すればよい。
 以上から、この措置の意義については現在、不明とせざるを得ない。
*17)「延暦一九年(八〇〇)一二月四日太政官符」(『類聚三代格』巻七)。
*18)延暦一八年(七九九)五月庚午条。
*19)延暦一七年四月甲寅条(註(16)前掲)、延暦一八年五月庚午条(註(18)前掲)、「延暦一九年一二月四日太政官符」(註(17)前掲)、弘仁二年(八一一)二月己卯条・「同年同月二〇日詔」(『類聚三代格』巻七)。
*20)後世の儀式書に見える郡領の任用手続きの詳細な儀式次第については、森公章「試郡司・読奏・任郡司ノートー儀式書に見える郡司の任用方法ー」(『古代郡司制度の研究』吉川弘文館、二〇〇〇年。初出は一九九七年)・拙稿Cなど参照。
*21)以上、森公章「律令国家における郡司任用方法とその変遷」(註(20)書。初出は一九九六年)一四三頁。
*22)毛利憲一「郡領任用政策の歴史的展開」(『立命館文学』五八〇、二〇〇三年)一一頁。以下、毛利の見解は基本的に同論文による。
*23)毛利の(ア)・(イ)に関する説明は次の通りである。
 (ア)については、国司権限・郡領「私門」の抑制という課題に対し、桓武が〈新王朝〉観念を有していたため、「譜第之選」停止という従来の「王権との歴史的奉仕関係」を否定する措置が取られ、「改新」以来の一大「改革」と位置付けられたとする。
 (イ)についても、「芸業」は地方統治の現実との乖離をもたらす基準であり、そのような統治を担う実務能力ではないが、桓武の〈新王朝〉観念・「中国皇帝的徳治理念」によって設定されたとする(以上、一三頁)。
 この説明は成立し難いといわざるを得ない。
 まず(ア)について。
 前提として概念の問題について述べておく。毛利の「王権との歴史的奉仕関係」とは「労」に端的に示される、天皇への在地首長層の「祖」以来の奉仕(及びそれに対する「君恩」)の関係である。筆者はこの関係は「人格的身分的結合関係」の概念で把握すべきと考える(後述)ので、以下、この概念で統一する。
 また、以下の行論は後文及び本項「5.小結」の「『行政の『相対的独立化』』と(α)『人格的身分的結合関係』」・第Ⅷ章での分析を前提とする。
 さて、「譜第之選」停止は「人格的身分的結合関係」自体の否定ではない。否定されたのは「郡務」の直接の前提という位置付けに過ぎず、それ自体の意義が否定されたわけではないのである。
 そもそも「譜第」の在地首長層が、「立郡」以来の奉仕を根拠として郡領に任用されることも必ずしも否定されたわけではなかった。
 まず、「延暦一七年制」は「譜第」の在地首長層を郡領任用から排除するものではない。同制が否定したのは、郡領が「譜第」という特定系譜によって継承されていく(「相襲う」)ことー言い換えれば、郡領に任用される系譜が原則として特定・限定されていることーであって、「譜第」の任用自体が否定されているわけではない。
 一方、郡領任用手続きにおいて系譜(「祖」以来の奉仕・「労」)もチェックされていたと考えられる。「芸業」との関係に問題が残るものの、孝徳朝以来の奉仕を根拠として「譜第」の在地首長層が郡領に任用される余地も存在していたと考えられる。
 それ故、「延暦一七年制」は「天武系」を主とする従来の天皇に対する在地首長層の奉仕を否定するものではない。
 したがって、毛利の理解では、同制における「譜第之選」の停止が直ちに「改新」以来の一大「改革」とされた必然性を説明することはできない。
 次に(イ)について。
 これについては、桓武が〈新王朝〉・「中国皇帝的徳治理念」を有すると、なぜ郡領の任用基準が「芸業」とされるのかが説明されていない。
 あえて推測を巡らせば、学芸能力たる「芸業」においては中国典籍の素養が重要な位置を占めたと見られ、それに秀でた者を従来、在地首長層を任用してきた郡領に任用することにより、桓武が「中国的」国家を造り上げようとしたとの可能性が想定される。
 しかし、この想定は成立し難いであろう。
 第一に、任用に当たって「芸業」のような学芸能力が基準とされなかったのは、郡領だけではない。任用基準が具体化されないのは、日本律令制国家の官職任用一般の特徴であり(拙稿C参照)、本来、このような意味での「中国的」国家を造るのであれば全ての官職の任用基準制度に発動する方が自然であろう。
 第二に、郡領任用における措置を一つの手段として「中国的」国家を目指すのであれば、なぜ、在地首長層の任用が維持され、唐の県官のような中央派遣官にされなかったかが問題となる。もちろん、この批判に対しては、本来、このような方向性を目指したが、在地首長層の支配を否定できなかったとの反論が予想されるが、このような方向性の模索が実証されているわけではない。
 毛利は(ア)・(イ)を桓武の〈新王朝〉観念によって説明するが、註(14)で述べたように自己運動できない君主の「政治的理念」によって、措置の意義に関わる(ア)・(イ)を説明するのは頗る限界があると言わざるを得ない。君主の「政治的理念」の影響は否定しないが、既述のようにそれは支配層の全体的意思に規定・拘束されており、その意思は支配層の歴史的特質に規定されると考えられる。したがって、基本的には(ア)・(イ)もこのような特質との関連で説明されるべきであろう。
 そして、このような支配層・国家機構の歴史的特質を規定するのが「人格的身分的結合関係」であることは既述の通りである。したがって、この概念を欠いては、「延暦一七年制」の意義を把握することもできないと言える。「王権との歴史的奉仕関係」という概念は放棄し、「人格的身分的結合関係」を使用すべきである。
 他に「延暦一七年制」の意義を把握する上でも一つの前提となる大宝令の郡領任用基準制度の毛利の理解(「郡領の任用と『譜第』―大宝令制の構造と特質ー」〔『続日本紀研究』三三八、二〇〇二年〕)については、拙稿C参照のこと。
*24)「延暦一六年(七九七)一一月二七日太政官符」(『類聚三代格』巻七)。
*25)「延暦一七年(七九八)二月一五日太政官符」(『類聚三代格』巻七)
*26)「延暦一七年(七九八)三月二九日太政官符」(『類聚三代格』巻七)・同年一〇月丁亥条。
*27)「延暦一七年(七九八)三月二九日太政官符」・同年一〇月丁亥条(註(26)前掲)。
*28)「延暦一九年(八〇〇)一二月四日太政官符」(註(17)前掲)。
*29)「延暦一九年(八〇〇)一二月四日太政官符」(註(17)前掲)。
*30)また、「人格的身分的結合関係」のこのような位置は、唐の「才用」規定を継受せず、任用の直接の前提が位階の保持になる一般官人の場合も同様であり、同じく孝徳朝に成立したと認識されていた「公務」・国家機構一般の在り方の「改革」でもあった。
*31)毛利前掲論文。
*32)「延暦一九年(八〇〇)一二月四日太政官符」(註(17)前掲)。なお、唐選挙令は「才用」(「才能」)を審査するための基準(その具体的内容)を明確化している(大隅清陽「律令官人制と君臣関係ー王権の論理・官人の論理ー」〔『律令官制と礼秩序の研究』吉川弘文館、二〇一一年。初出は一九九六年〕など参照)。しかし、言うまでもなくそれは「才用」の語それ自体から導き出されるものではなく、唐の「貴族社会の価値観」(大隅論文、一四一頁)を媒介としたものである。
*33)弘仁二年(八一一)二月己卯条・「同年二月二〇日詔」(註(19)前掲)。
*34)このような認識においては、国内・郡内の情勢は必ずしも任用に当たって重要な要件とはならず、(bー2)のように、「本国」を経ず、式部省が独自に「簡試」する場合が認められると考えられる。
*35)『延暦交替式』の巻末奏上文には「庶(こいねが)わくは、諸国をして遵奉し以て失わ(せしめ)ず」とあり、交替政における国司の失錯を正すことが編纂目的の一つであったことが分かる。
*36)表1-№23。
*37)表1-№25。
*38)なお、国司制で触れた(ⅰ)~(ⅲ)の事例には郡司も関わると見られる。例えば、(ⅰ)の対応措置は「内外の官人」を対象とし、(ⅱ)は「国宰・郡司」の「怠慢」を問題とし、(ⅲ)は「国司以下」の「犯」が問題とされる。しかし、基本的に問題とされているのは国司と見るべきであろう。
*39)四月壬寅条。
*40)梅村喬「公廨稲制と補填法の展開ー専当人補填から共填へー」(『日本古代財制組織の研究』吉川弘文館、一九八九年)一〇二頁など参照。
*41)なお、「訪察」の語は第Ⅴ期の事例では表1-№26の観察使の評定基準(「大同四年(八〇九)九月二七日太政官符」〔『類聚三代格』巻七〕)に見える。
*42)観察使については福井前掲書、大塚徳郎「平城朝の政治」(『平安初期政治史研究』吉川弘文館、一九六九年。初出は一九六二年)、笠井純一「観察使に関する一考察」(『続日本紀研究』一九四・一九五、一九七七・七八年)、春名宏昭『平城天皇』(吉川弘文館、二〇〇九年)など参照。
*43)延暦五年(七八六)四月庚午条(前掲)・「同年同月一九日太政官奏」(『類聚三代格』巻七)。
*44)「大同四年(八〇九)九月二七日太政官符」(註(41)前掲)。
*45)なお、昇進については、五位以上の対象者については、事を量った上での「進階」、六位以下の対象者については、「不次に擢でて」五位を賜与するとされる。
*46)詳しくは記さないが、改訂の重要なポイントは例えば冒頭で「撫育に方ありて戸口増益す」「農桑を勧課し倉庫を積実す」について、増減の「分数」などが定められているように、進階・擢授及び解任の基準を精緻化することにあると見られる。
*47)福井前掲書、一三〇頁以下参照。
*48)なお、拙稿Eでは令制の「試練」の筆記試験について、(1)在地首長層の郡領としての適性評価機能を疑問視し、(2)その意義を在地首長層もディスポティシズムの原理に編成されていることを象徴的に示す点に求めた。今のところ、令制の筆記試験についてはこの見解に修正の必要は感じていない。
 しかし、毛利前掲論文によれば「延暦一七年制」によってこのような「試練」・筆記試験の性格に変化が生じていた可能性を指摘できる。
 すなわち、毛利は同制により「式部省で(「芸業」的)「才用」を審査する階梯はこの時初めて組み込まれた」(一二頁)とする。後述のように、毛利は在地首長層が郡領任用に当たって「甲」(甲・乙・丙などの筆記試験の成績)を競ったと認識しているので、同制においては、筆記試験によって郡領としての適性が評価されたと想定していると考えられる。
 「試練」が法制上、「才用」を審査する場と位置付けられている以上、「芸業」が「試練」・筆記試験で審査される形になるのは当然と言える。
 拙稿Eとの関わりで問題になるのは、それが実質的に在地首長層の適性評価機能を有しているかという点である。
 毛利の指摘の中で、このような評価機能の存在の根拠となるのは前述の在地首長層が筆記試験の成績を競ったとの理解である。これは、弘仁三年(八一二)六月壬子条に、郡領任用につき在地首長層が「第を争い甲を競う」とあるとの認識に基づく。
 しかし、この認識は成立しない。
 該当部分は和学講談所(塙保己一)板行の版本(「塙板本」)を底本とした訳注日本史料本には確かに「第を争い甲を競う」とある。しかし、同本の校異註により三条西家旧蔵本(「三本」)は「第を争い、相競う」とあり、「甲」の字は存在しないことが知られる(六一四頁)。一方、該当部を収載した「同年八月五日太政官符」(『類聚三代格』巻七)には「三本」同様「第を争い、相競う」とあり、新訂増補国史大系本の校異註による限り、写本間の異同は確認されない。『後紀』においても「三本」が「塙板本」の祖本と見られることからも(齋藤融「残存巻について」〔訳注日本史料本〕参照)、現在、把握できる該当部の文字の異同に関する知見の限りでは「第を争い、相競う」が本来の記述であった可能性が高い。
 とすれば、現在のところ、在地首長層が「甲」(筆記試験の成績)を競ったという理解は成立しない。一方、「第を争い」についても該当部が前年の「譜第之選」復活を受けた記述である以上、「譜第」の意と取るべきであり、「譜第の優劣」(「第Ⅴ章」註(2)前掲天平勝宝元年二月壬戌条)を競ったと理解すべきであろう(森註(21)論文)。
 したがって、毛利の指摘の限りではこのような評価機能については確認できないことになる。
 しかし、以下の根拠によってこのような評価機能が存在した可能性を指摘できる。
 すなわち、大宰府が郡領の「才能を歴試」した結果、「未だその人を得ず」という状況に陥ったことが確認できることである(註(17)前掲「延暦一九年〔八〇〇〕一二月四日太政官符」)。
 この史料は前述の「条目」の存在を示すものであるが、ここでの「歴試」は毛利が指摘するように西海道における「試練」であり、筆記試験によるものと考えられる(毛利論文一二頁。ただし「未だその人を得ず」の部分については言及がない)。その結果、「未だその人を得ず」(郡領としての適任者を得られない)状況になったとすれば、筆記試験が適性評価機能を備えていたことになる。
 すなわち、結論的には毛利の想定は支持し得る可能性がある。
 とすれば、(1)はもちろんのこと、ディスポティシズムの原理も単に「象徴」的に示すに留まらないので、(2)も変化することになる。また、これは、「試練」の基本的意義が「意識の内部の支配」の基本的手段に留まらなくなったことをも示している。
 今後、なお検討したいとは思うが、差し当たり第Ⅴ期に「試練」の性格・意義に変化があった可能性があることを指摘しておきたい。
*49)「一一月二七日太政官符」(註(24)前掲)。
*50)「二月二六日太政官符」(『類聚三代格』巻七)。
*51)早川庄八「選叙令・選任令と郡領の『試練』」(「第Ⅰ章」註(7)書。初出は一九八四年)。なお、拙稿Eも参照。
*52)「延暦一六年(七九七)一一月二七日太政官符」(註(24)前掲)。
*53)大町健「「畿内郡領と式部省『試練』」(『日本歴史』四六六、一九八七年)・拙稿E参照。
*54)延暦一八年(七九九)四月壬寅条(註(39)前掲)。
*55)天平宝字元年(七五七)正月甲寅条(「第Ⅴ章」註(9)前掲)。
*56)郡司制においては「意識の内部の支配」の強化措置として積極的意義を有するのは昇進に過ぎないが、対応措置が見られるのは確かである。
*57)福井前掲書、二六四頁。註(42)前掲論文・文献参照。
*58)弘仁元年(八一〇)六月丙申条。
*59)福井前掲書、一三三頁。
*60)「弘仁八年正月二四日太政官符」「天長二年閏七月二六日太政官符」(いずれも、『類聚三代格』巻七)。
*61)米田「第Ⅴ章」註(35)書など参照。
*62)なお「出挙公廨制」については、「延暦五年(七八六)六月一日格」(「延暦二二年二月二〇日太政官符」〔『延暦交替式』〕所引)における前後司間の、「延暦一二年(七九二)二月一五日格」(「貞観八年三月七日太政官符」〔『類聚三代格』巻六〕)における和泉国などの守と掾の、「公廨」の配分率を規定する措置などが見える。
*63)二月壬申是日条。なお、職分田は史料上では「職田」。
*64)正月甲辰条。なお、職分田は史料上は「公廨田」。
*65)同月乙酉条。
*66)八月丁亥条(なお、職分田は史料上は「公廨田」)・九月丁酉条。
*67)「大同三年(八〇八)二月五日太政官符」(『三代格』巻六)。なお、同官符では同年に、「国司俸」の停止に伴い、事力とともに「公廨」((D)-(b))が復活したことになっている。したがって、前年の八〇〇年に職分田・「公廨」とともに事力の復活(及び「国司俸」の停止)が宣言され、八〇一年に至って実施されたということかもしれない。
*68)二月乙丑条。
*69)薗田「第Ⅲ章」註(31)論文七九~八〇頁、山本「第Ⅲ章」註(28)論文一二頁などに言及はあるが、十分に検討されているとは言えない。
*70)「二月五日太政官符」。なお、事力の支給は「天長二年(八二五)閏七月二二日太政官符」により復活(ともに『類聚三代格』巻六)。
*71)そもそも、本稿の「規律」の概念は古代における「罪」「犯」などの概念に必ずしも即しているわけではなく、その認定に限界があることは後述する通りである。
*72)№107の「免官」を(ウ)「解任」と見れば五例、名例律19の発動と見れば六例となる。
*73)吉田A論文。
*74)長山「第Ⅱ章」註(29)論文参照(長山の指摘については同註で関説)。
*75)「一般的表現」の一年あたりの発動頻度は〇.八六~〇.八九になる。表2-Bから第Ⅴ期が最高値であることは明らかと考えられるので、第Ⅰ~Ⅳ期との比較は省略する。
*76)№119の規律発動を『貞観』に従えば一八例、『後紀』に従えば一九例となる。
*77)違勅罪同様、№119の規律発動を『後紀』に従えば一二例、『貞観』に従えば一三例となる。
*78)福井前掲書など。
*79)註(72)で触れた№107の「免官」を、名例律19の発動と見れば一五例、(ウ)「解任」の発動と見れば一六例になる。
*80)吉川真司「律令官僚制の基本構造」(「第Ⅱ章」註(41)書。一九八九年)。ただし、禄を位階と同様の「基本的紐帯」と看做すことはできないことについては、拙稿B参照。
*81)前述の推定のようにそれが財政問題の一環であるとすれば、財政さらにそれを基盤とした職務執行が「人格的身分的結合関係」の秩序から「独立化」していく傾向を示す。
*82)(あ)七八一年(天応元)の詔における「貶降」「顕官の賜与」の宣言・(い)七八六年(延暦五)の「条例」など。
*83)註(19)前掲。
*84)ただし、良人共同体における「人格的身分的結合関係」の「基本的紐帯」である姓の秩序については、『新撰姓氏録』が編纂されたが未完に終わった。なお、長谷部将司「氏族秩序としての『勅撰』漢詩集」(『国史学』一九一、二〇〇七年)、仁藤註(14)論文などに検討がある。
*85)弘仁期以降、本格的に導入される「唐風文化」については君臣関係の維持・強化の側面があり、このような弱点・課題の克服であった可能性がある。「唐風文化」の概況については差し当たり、笹山晴生「唐風文化と国風文化」(『岩波講座日本通史 五』岩波書店、一九九五年)、「唐風文化」と君臣関係の関連などについては長谷部註(84)論文など参照。.  なお、表2-Bによれば、「一般的表現」は二五~二六例である。
 また、以下の検討では、各規律の発動頻度を可能な限り、緻密に把握するため、一年あたりの発動頻度を、それまでの最高頻度だった第Ⅳ期と比較することにしたい(ただし、(イ)「欠失補填」は除く)。

(ア)律の規定

 ここでは、(ア)律の規定及び違勅罪の特徴・在り方を検討する。
 まず、(ア)律の規定について。
 表2-A・B・Cによれば、第Ⅴ期における(ア)律の規定の発動事例数は五~六例*72)で、他に准ずると見られる例が一例(№160)が確認される。
 まず、これは、第Ⅴ期の(ア)律の規定・違勅罪~(エ)経済的特権の剥奪の中では最小値となることを確認しておきたい。
 次に、一年あたりの発動頻度は〇.一七~〇.二〇回(准ずる例を含めると、〇.二〇~〇.二四回。ただし、以下の検討では、准ずる例は対象に含めないことにする)である。
 一方、第Ⅳ期の(ア)律の規定の、一年あたりの発動頻度は〇.〇九~〇.一八回になる。
 両者の発動頻度を把握すると、「第Ⅳ期:〇.〇九~〇.一八回」「第Ⅴ期:〇.一七~〇.二〇回」となる。
 お互いの最小値(〇.〇九と〇.一七)を見れば、かなりの差があるようにも見える。
 しかし、第Ⅳ期は年数が少なく、個別の各規律の事例数は極めて少ない。そのため、個別の規律については数値の変動可能性が大きく、この数値を以て、必ずしも両者の発動頻度の相違を明確に把握することはできない。例えば、第Ⅳ期の発動(あるいはその可能性を示す)事例が一例増加し、三例となれば(実際に確認できるのは一~二例)、第Ⅴ期の発動頻度を上回ることになる(〇.二七回)。また、(ア)律の規定の発動数は第Ⅴ期の中でも最小値であり、こちらの数値の変動可能性も大きいと言わざるを得ない。
 また、第Ⅴ期の(ア)律の規定の発動事例については、軍政が一例(№97)、個別事例(可能性を示す事例を含む)が三例(№89・107・122。ちなみに准ずると見られる№160も個別事例)、含まれる。前者が一般的な民政にどこまで敷衍できるか疑問の余地があるし、後者はいずれも『後紀』に収載された事例であり、『続紀』と『後紀』の編集方針の相違などの影響も考えられる。
 したがって、一般的な民政への発動を示す事例は二例(№115・154)となる。
 一方、第Ⅳ期にはこのような民政への発動は№70が可能性を示すに留まり、〇~一例である。
 第Ⅴ期の発動事例は第Ⅳ期よりは多いが、二九年という年数の長さを考慮すれば過大に評価することはできない。
 発動頻度については、必ずしも第Ⅳ期よりも上回っているとは言えないと考えるべきであろう。
 また、一般的な民政への発動を示す二例の内、一例(№115)は前述のような編目名・条文名が示されず、取意文(「公事稽留之罪」)によって引用が行われる事例であり、律の条文が参照されなかった可能性を示すものである。
 ただし、第Ⅴ期末期の№154については国郡司が基本的発動対象となり、編目・条文内容が引用などによって明示され(条文が確実に参照された上で)、発動されている。また、この事例は、従来、種々の対応措置が取られながらも、(ア)律の規定が発動されなかった調庸の麁悪・違期・未進についてそれが発動された事例でもある。前述した官当制度の、九世紀における律の条文に従った運用が、弘仁期から始まるとされている*73)ことを考慮すれば、(ア)律の規定の位置付けを考える上で注目される事例と言える。
 ただし、これについても、条文内容から発動に問題があることが指摘されている*74)ことは考慮しなくてはならない。
 以上から、(ア)律の規定の発動の在り方についてまとめると次の通りである。
 第一に、発動数は、(ア)律の規定・違勅罪~(エ)経済的特権の剥奪の中で最小値である。
 第二に、発動頻度については必ずしも第Ⅳ期を上回っているとは言えない。
 第三に、発動に当たっても条文が参照されていない可能性を示す事例が存在する。
 以上は、第Ⅳ期までと同様、. ƛ¸åï¼šè‹±æ–‡ç ”究論文寫作-文法指引,原文名稱:Grammar for the Writing of English Research Papers,語言:繁體中文,ISBN:9575323181. の二つを挙げることができる*33)。
 (1)に見える除免官当は、前述のように(ⅰ)除名・(ⅱ)免官・(ⅲ)免所居官・(ⅳ)官当からなる。(ⅰ)除名は対象者を官人の名籍から除く措置で、官位・勲位が六年間剥奪される。(ⅱ)免官は、位階・勲位を三年間、(ⅲ)免所居官は同じく一年間剥奪する措置であり、(ⅳ)官当は位階を以て罪に換える措置である*34)。
 すなわち、いずれも位階の剥奪・降下が行われ、官位相当制の原則から、(ⅰ)~(ⅲ)は勿論、(ⅳ)も現在の官職を解任されるケースが生じる*35)。
 (2)の考課令58犯私罪条の解任規定は、私罪により考課が「下中」、公罪により「下々」となった場合に「並びに解任する」措置である。すなわち、考選制度の一環と言える。
 しかし、これらを本稿で言う(ウ)「解任」と同一視することはできない。
 第一に、職務不履行・服務規定違反を問うべき行政行為が具体化・特定化されていない。
 (1)の発動対象行為の一部を例示すれば、(ⅰ)除名は、監守内の姧・盗・略人など、(ⅱ)免官は監臨外の姧・盗・略人など、(ⅲ)免所居官は祖父母・父母が老疾で侍なき状況での赴任など、(ⅳ)官当は公罪・私罪一般である。発動対象として明確化されている行政行為は「財を受けて法を枉ぐ」(除名)「財を受けて法を枉げず」(免官)に限定され行政一般に及ぶわけではなく、またあくまで公罪・私罪の一部に過ぎない。
 (2)も、直接の前提となるのは考課が「下中」「下々」になったことであって、発動対象となる行為が具体化・特定化されているわけではない。また、解任措置の根拠ともなる「私罪」「公罪」についても同様である。名例律官当条によれば、前者は「(ア)私に自ら犯し、及び(イ)詔に対えること詐りて実を以てせず、(ウ)請を受けて法を枉げたる類」、後者は「(エ)公事によりて罪を致して、私曲なき」とされる。(ア)・(エ)は極めて一般的な内容で対象行為が具体化・特定化されているわけではない。(イ)・(ウ)については、一定度、具体化されているが、「(銭を用いない田の売買につき)検校を加えずして、違うこと一〇事以上」(表2-Aー№8。前述)といった例と比較すれば、抽象度が強いと言わざるを得ない。 
 したがって、(1)・(2)は(ウ)「解任」とは形態が異なっていると考えるべきである。
 第二に、これらの措置は、律令法上の「罪」・「科罪」などに当たらない。
 (1)の場合、解任はあくまで除免官当に伴う付随的現象であり、「罪」「科罪」にあたるのは除免官当それ自体である。
 (2)も、あくまで考選制度・「意識の内部の支配」の一環であり、律令法上、それによる解任が「罪」「科罪」などに該当するかは疑問である。(ウ)「解任」は、支配層の一般的観念のレベルとはいえ、第Ⅰ期の段階で、発動対象行為あるいは措置自体が「罪」と認識されていたが、(2)が律令法上、同様の位置付けを与えられていた可能性はほとんどないと言える。
 以上から、本稿で言う(ウ)「解任」は律令法上は規定されていないと考えられる*36)。.  根拠は「その規定の由来する倫理的基礎をのべないのが法の特徴」(同頁)だからである。
 石母田が例として挙げているのは、名例律が、叛逆を八虐の一つであると規定しても、なぜ、そうであるかを記されないことである。
 同様の状況は地方行政機構の維持・運営に関わる単行法令(及びその集成としての「格」・「式」)にも見出すことができる。
 前述の「延暦一七年制」を例にとれば、「芸業著聞にして郡を理めるに堪える者」を郡領に任用する旨は規定されたものの、なぜ、そうでなければならないかは説明されていない。
 尤も、この制を規定した「三月丙申詔」は取意文であるから、全内容を知り得るわけではないが、これを改定し、「譜第之選」を復活させた「弘仁二年二月二〇日詔」*83)も同様である。この詔では、「庸材の賤下」を郡領に任用したことによる、「政を為すにすなわち物情、従わず、訟を聴けばすなわち決断、伏するなし。」といった状況は説明するものの、「譜第之選」の「倫理的基礎」を説明するわけではない。律令法と異なり、その施行理由を詳細に述べなければならない単行法令においても、法としての基本的特徴は共通しているのである。
 しかし、「倫理的基礎」なしに行政が成り立つわけではない。そして、律令制国家における「倫理的基礎」は天皇への奉仕の観念を中核としており、天皇と官人との(α)「人格的身分的結合関係」に基づいている。
 すなわち、第Ⅴ期の「行政の『相対的独立化』」は、(α)「人格的身分的結合関係」の意義を否定するものではあり得ない。実際、後述のように「延暦一七年制」は天皇への「祖」以来の奉仕という行政の「倫理的基礎」を否定するものではなかったと考えられる。
 むしろ、石母田が述べるように、それが進行すればするほど、その強化を要請するものであったと考えられる。
 そして、「人格的身分的結合関係」の行政への直接的な規定性が喪失しつつある以上、それは新たな形で行われざるを得ない。
 すなわち、第Ⅴ期における「行政の『相対的独立化』」は、本来、(α)「人格的身分的結合関係」の新たな展開を要請するものであったと考えられる。
 しかし、第Ⅴ期の地方行政機構の維持・運営に関してこのような課題への対応措置を見出すことはできない*84)。むしろ、この時期の「行政の『相対的独立化』」は、(α)「人格的身分的結合関係」に基づく「倫理的基礎」に弱さを抱えていた点が、弱点であった可能性を指摘できる*85)。


*1)五月己未条・「同月一八日太政官奏」(『類聚三代格』巻一七)。
*2)良人共同体における良賎通婚の禁止の意義については、石母田正「古代の身分秩序」(『石母田正著作集 四』岩波書店、一九八九年。初出は一九六三年)四七頁参照。
*3)以下、第Ⅴ期の班田制については、虎尾俊哉『班田収授法の研究』(吉川弘文館、一九六一年)などによる。
*4)四月乙亥条など。
*5)一〇月乙未条。
*6)七月辛卯条。
*7)一二月辛未条、「天長二年(八二五)一一月一二日尾張国検川原寺寺田帳」(『平安遺文 一』五一号文書)。
*8)「延暦二〇年六月五日太政官符」(「承和元年(八三四)二月三日太政官符」所引〔『類聚三代格』巻一五〕)。
*9)(3)の次の班田は八一〇年(弘仁元)~八一二年(同三)にかけて行われた。なお、一紀一班制は八〇八年(大同三)に六年一班制に復された(「七月二日太政官符」〔註(8)前掲「承和元年二月三日太政官符」所引〕)。
*10)虎尾註(3)書、三〇九頁。
*11)当然、戸籍は六年に一回作成されるので、一二年に一回、班田を行えば、籍年と一致することになる。例えば、一紀一班制によれば八〇〇年(延暦一九)の次の班年は八一二年(弘仁三)だが、同年は八〇六年(大同元)に次ぐ籍年である。
*12)「承和元年二月三日太政官符」(註(8)前掲)など。
*13)虎尾註(3)書は、「一紀一班制」について、班年を一回、抜くことによる造籍と班年の調整の意義を強調するが(三一一頁)、その杜撰さは否定し難いであろう。.

である。
 この場合、まず問題になるのは「(γ)『単一的支配』の強化、とは何か」である。
 その考察の前提になるのは、(γ)「単一的支配」・国家機構の維持・運営における基本的・直接的目的である。
 (γ)「単一的支配」の基本的目的は「原則」に基づく国家機構を構築・維持するためであり、その国家機構は直接には*9)支配層の「共同利害」を維持するために存在する。
 とすれば、何らかの形での「最高の指揮命令権」への服従が、国家機構・「共同利害」の維持の上で有効性を有しているのであれば、(γ)「単一的支配」は機能していると見るべきであろう。
 そして、かかる維持が強化されるのであれば、(γ)「単一的支配」は強化されたと見るべきと考える。
 では、「出挙公廨制」と国家機構・「共通利害」の維持とはどのような関係になっているだろうか。
 まず、重要なのは「出挙公廨制」によって、国司の「国庫への直接的な依存」の傾向が存在し、それが経済的生活に大きな意義を占める限りにおいては、彼らは基本的に国家機構を破綻させることはない、ということである。
 これは、言い換えれば国家機構・「共同利害」の維持の根幹に関わる問題については、国司は最終的には「最高の指揮命令権」に服従せざるを得ないことを示している。そのような意味において、彼らは(γ)「単一的支配」の中に編成されたと言い得るのである。
 すなわち、このような意味において、「出挙公廨制」によって(γ)「単一的支配」は維持・機能していると言える。
 では、これは(γ)「単一的支配」の強化と言い得るであろうか。
 結論から言えば、そのように言い得ると考える。
 根拠は、律令法において、地方行政機構における(γ)「単一的支配」の構築・維持に関わる諸機能が頗る脆弱であったことである。
 「出挙公廨制」はその脆弱さを補強する意義がある。このような媒介を得たことはやはりその強化と考えるべきであろう。
 なお、前述の二つの問題の内、(ア)はこのような想定を妨げるものではない。
 また、(イ)は視野を、個別的法令における「国家意志」と最高機関の指揮・命令権への服従に限定した見方に過ぎず、成立しない。国家機構・支配層の「共同利害」の維持という、(γ)「単一的支配」の本来の基本的目的に照らせば、本稿のように捉えるべきである。
 (イ)に見える国司の「個別的利害」の追求の問題は、むしろ地方行政機構における(γ)「単一的支配」の具体的な在り方の問題と捉えるべきと考える(後述)。
 以上から、「出挙公廨制」は(γ)「単一的支配」を強化する意義を有していたと考えられる。
 また、「出挙公廨制」がこのような意義を担い得たのは、言うまでもなく、公出挙利稲が「公廨」に充てられるという形態による。
 「出挙公廨制」については、既述のように、律令法以来の「公廨」との連続性が近年、強調されているが、(γ)「単一的支配」の構築・維持という観点からすれば、やはりそれ以前の「公廨」にはない画期的な意義を持っていたと見るべきであろう。
 仮に、この意義を看過すれば、なぜ、九世紀以降に国家が存続・展開し得るのか、さらに、その支配の「要」としての位置を国司に占めさせた歴史的条件は何か*10)、といった問題に迫ることは不可能になると考えられる。
 
・地方行政機構における、直接生産過程からの分離の強化・(γ)「単一的支配」

 次に、以上のような「出挙公廨制」の意義を踏まえた上で、地方行政機構における、直接生産過程からの分離の強化による(γ)「単一的支配」の在り方を考える。
 第一に指摘すべきは、.  次に、(Ⅱ)について。この問題については、既述のように地方行政機構の維持・運営における(β)「意識の内部の支配」と(γ)「単一的支配」の位置付けが問題となる。
 この点については(β)「意識の内部の支配」が根幹とも言える位置を占めていたと考えられる。
 第一に、既述のように、(β)「意識の内部の支配」・(γ)「単一的支配」の具体的な運営における機能面の相違は明白であり、前者が主力となっていたと考えられる。
 第二に、(β)「意識の内部の支配」(及びそれによって構築・維持される(α)「人格的身分的結合関係」)は、単に地方行政機構の維持・運営における主力であるに留まらず、(γ)「単一的支配」を構築・維持する意義をも有すると考えられる。
 まず、重要なのは(γ)「単一的支配」の構築・維持も、また支配層の課題の一つであったことであろう。
 そもそも(γ)「単一的支配」とは、それなしには国家機構が運用できない性格のものである。また、七世紀半ばの倭王権が首長間結合の進展による分裂の危機にあったこと*42)も考慮されねばならない。律令制国家とは、かかる危機の克服として成立したとも言えるのであって、同じ問題の再生産を防ぐには「単一的支配」が構築されねばならなかった。
 次に踏まえるべきは、律令制国家における(γ)「単一的支配」の確立とは、(β)「意識の内部の支配」を重要な手段とする(α)「人格的身分的結合関係」の秩序の確立に応ずるものと、論理的には位置付けられていることであろう。
 すなわち、(β)「意識の内部の支配」の徹底によって、(α)「人格的身分的結合関係」の秩序の官人への内面化・身体化(前述)が徹底し、天皇への奉仕・忠誠観念が確立すれば、官人は「最高の指揮命令権に服従する」ことになる。これに応じて行政の「私物化」は回避され、必然的に(γ)「単一的支配」は維持されるのである。
 律令法において三者はこのような関係になっていたと考えられ、地方行政機構の維持・運営もそれに基づいていたと考えられる。
 このような維持・運営においては、(β)「意識の内部の支配」が根幹とも言える位置を占めていたことは明らかである。
 以上の分析によって、律令制国家の基本的体制における. 2(21年7月25日)ESS/FI (SCAPIN 1826-A) 昭和21年7月25日 覚書あて先 日本帝国政府
経由 東京,終戦連絡中央事務局
件名 非日本人に対する普通税の付課 1.  根拠は「その規定の由来する倫理的基礎をのべないのが法の特徴」(同頁)だからである。
 石母田が例として挙げているのは、名例律が、叛逆を八虐の一つであると規定しても、なぜ、そうであるかを記されないことである。
 同様の状況は地方行政機構の維持・運営に関わる単行法令(及びその集成としての「格」・「式」)にも見出すことができる。
 前述の「延暦一七年制」を例にとれば、「芸業著聞にして郡を理めるに堪える者」を郡領に任用する旨は規定されたものの、なぜ、そうでなければならないかは説明されていない。
 尤も、この制を規定した「三月丙申詔」は取意文であるから、全内容を知り得るわけではないが、これを改定し、「譜第之選」を復活させた「弘仁二年二月二〇日詔」*83)も同様である。この詔では、「庸材の賤下」を郡領に任用したことによる、「政を為すにすなわち物情、従わず、訟を聴けばすなわち決断、伏するなし。」といった状況は説明するものの、「譜第之選」の「倫理的基礎」を説明するわけではない。律令法と異なり、その施行理由を詳細に述べなければならない単行法令においても、法としての基本的特徴は共通しているのである。
 しかし、「倫理的基礎」なしに行政が成り立つわけではない。そして、律令制国家における「倫理的基礎」は天皇への奉仕の観念を中核としており、天皇と官人との(α)「人格的身分的結合関係」に基づいている。
 すなわち、第Ⅴ期の「行政の『相対的独立化』」は、(α)「人格的身分的結合関係」の意義を否定するものではあり得ない。実際、後述のように「延暦一七年制」は天皇への「祖」以来の奉仕という行政の「倫理的基礎」を否定するものではなかったと考えられる。
 むしろ、石母田が述べるように、それが進行すればするほど、その強化を要請するものであったと考えられる。
 そして、「人格的身分的結合関係」の行政への直接的な規定性が喪失しつつある以上、それは新たな形で行われざるを得ない。
 すなわち、第Ⅴ期における「行政の『相対的独立化』」は、本来、(α)「人格的身分的結合関係」の新たな展開を要請するものであったと考えられる。
 しかし、第Ⅴ期の地方行政機構の維持・運営に関してこのような課題への対応措置を見出すことはできない*84)。むしろ、この時期の「行政の『相対的独立化』」は、(α)「人格的身分的結合関係」に基づく「倫理的基礎」に弱さを抱えていた点が、弱点であった可能性を指摘できる*85)。


*1)五月己未条・「同月一八日太政官奏」(『類聚三代格』巻一七)。
*2)良人共同体における良賎通婚の禁止の意義については、石母田正「古代の身分秩序」(『石母田正著作集 四』岩波書店、一九八九年。初出は一九六三年)四七頁参照。
*3)以下、第Ⅴ期の班田制については、虎尾俊哉『班田収授法の研究』(吉川弘文館、一九六一年)などによる。
*4)四月乙亥条など。
*5)一〇月乙未条。
*6)七月辛卯条。
*7)一二月辛未条、「天長二年(八二五)一一月一二日尾張国検川原寺寺田帳」(『平安遺文 一』五一号文書)。
*8)「延暦二〇年六月五日太政官符」(「承和元年(八三四)二月三日太政官符」所引〔『類聚三代格』巻一五〕)。
*9)(3)の次の班田は八一〇年(弘仁元)~八一二年(同三)にかけて行われた。なお、一紀一班制は八〇八年(大同三)に六年一班制に復された(「七月二日太政官符」〔註(8)前掲「承和元年二月三日太政官符」所引〕)。
*10)虎尾註(3)書、三〇九頁。
*11)当然、戸籍は六年に一回作成されるので、一二年に一回、班田を行えば、籍年と一致することになる。例えば、一紀一班制によれば八〇〇年(延暦一九)の次の班年は八一二年(弘仁三)だが、同年は八〇六年(大同元)に次ぐ籍年である。
*12)「承和元年二月三日太政官符」(註(8)前掲)など。
*13)虎尾註(3)書は、「一紀一班制」について、班年を一回、抜くことによる造籍と班年の調整の意義を強調するが(三一一頁)、その杜撰さは否定し難いであろう。.  問題(ア)に示したように、国郡司の直接生産過程からの分離とそれによる(γ)「単一的支配」の構築・維持は、基本的に支配層の課題・政策的課題とは認識されなかった。
 したがって、既述のような直接生産過程からの分離・(γ)「単一的支配」の強化は、支配層の「意図」を超えて展開されたのである。
 このような展開を可能にしたのは、「出挙公廨制」の持つ、既述のような(1)直接生産過程からの分離の媒介、(2)それによる(γ)「単一的支配」の強化という物的給与制度の超歴史的・一般的機能である。
 「出挙公廨制」及び律令法における物的給与制度の歴史的起源については不明な部分が多いが*15)、それがこのような機能を持つ上で、国家機構の維持・運営の手段の一部という、その位置付けが不可欠の前提となることは言うまでもない。その意味では、このような(γ)「単一的支配」の展開は、七世紀後半~八世紀初頭における律令法・国家機構継受の所産とも言える。
 支配層の「共通利害」を維持する国家機構の支配が、このような形で強化されていくことに、律令制国家成立期の対外「交通」*16)が、国家展開期において果たした一つの歴史的意義を見出すことも不可能ではないと考える。

(2)規律

 ここでは、(γ)「単一的支配」を維持する上での規律の在り方について考える。. 3 June 1947  一九四七年六月三日附
(31)京都軍政部米陸軍郵便局発新聞掲載許可第9号 In view of the recent phenomenal increase of disputes involving “Therd[ママ] Nationals” over the evacuation of houses that have been referred to this office for mediation or settlement, we wonld[ママ] like to express our views as follows:  近来第三国人関係による借家明渡の紛争に就いて、本軍政部に調停を求めて来るものが著しく増加しつつあるに鑑み次の如き見解を発表するものである。 [中略] If there should be any member of the “Third Nations” who declared that he has no reed to obey the Japanese Civil Law because he is a foreigner or who uses such threatening language as that the house shall be requisitioned in the name of the Occupation Authorities, or who otherwise restore to violence intsmidation[ママ], or other unlawful conducts, then his case should be referred to the proper court. である。
 言うまでもなく、この問題は(α)「人格的身分的結合関係」の「基本的政策課題」における位置付けの問題である。
 そして、前半期の(Ⅱ)地方行政機構の維持・運営の在り方は(α)「人格的身分的結合関係」を基軸にしていた。
 とすれば、後者の行き詰まりは、前者の「基本的政策課題」における(α)「人格的身分的結合関係」の位置の低下及びその転換と有機的連関を有すると考えられる。
 したがって、「支配層の『基本的政策課題』の、前半期から後半期への転換」の背景として、かかる行き詰まりを上げることは十分に可能と考えられる。. を指摘できる。
 次に、表2-A・B・Cについて。
 表2-Bによれば、(1)第Ⅱ期に一三例だった「総事例数」は二一例に、(2)二例だった「×」は五例に、(3)一三例だった「規律発動総数」は一九例に、それぞれ増加している。
 表2-Cによれば、(1)に関わる「年数:総事例数」は「1:1.00」であり、一年あたり一.〇〇の事例を確認できることになる。これは第Ⅱ期よりは事例数の頻度が増加したことを示している。(2)に関わる「規律発動総数:『×』」は「1:0.26」で、規律発動1回に対し「×」が〇.二六回発動されていることになる。これは、第Ⅰ期には及ばないが、第Ⅱ期よりは高めの数値である。また、(3)に関わる「年数:規律発動総数」は「1:0.90」で一年あたり〇.九〇回、規律が発動されていることになる。これは第Ⅰ期を若干上回り、第Ⅰ~Ⅲ期では最高値となる。
 第Ⅲ期の概要としては、(2)「×」についても増加が見えるものの、主に(3)規律発動総数が増加したと考えられる。. を指摘できる。


*1)ただし、表1の有効性は「中央派遣使」は地方監察において意義を有していることを前提とする。この点で第Ⅳ期以降の分析における有効性には問題があるが、この点は後述する。
*2)ただし、第Ⅳ期のように「基本的政策課題」の在り方に左右される場合もある。
*3)慶雲元年(七〇四)正月戊申条、養老七年(七二三)一一月丁丑条。大宝令施行以前の同様の措置として、文武二年(六九八)二月己巳条、同三年二月乙酉条。
*4)七二一年(養老五)に諸司次官以上への致敬が禁止されている(正月己酉条)。これは、「大夫」に対する官人の致敬の禁止を示すとされるが(虎尾〔達〕A論文)、とすれば(イ)同質性の強化措置と見ることができる。なお、虎尾(達)はこの史料から律令制国家における(ア)身分制的差別を強調するが、措置の主旨はあくまで(イ)同質性の強調と見るべきである。
*5)三月丁丑条。
*6)在地首長層の基盤が郡域を超える場合があることが指摘されているが(大町「第Ⅰ章」註(16)論文)、何ら基盤がない郡での職務遂行が可能であるとは思われない。
*7)国司及び一般官人は、特に(ア)身分制的差別に関する措置が不明であるため、本文のように断定することは問題が残るが、少なくとも課題の一つであったことは指摘し得る。
*8)野村忠夫『律令官人制の研究 増訂版』吉川弘文館、一九七八年(初版は一九六七年)など参照。
*9)「中央派遣使」の監察においては、「巡察使」「按察使」の名称に見えるように「察る」(みる)ことが重要な意義を占めたと見られることから、その監察の具体的内容を示す語句として本稿では史料上に見える「訪察」の語を用いたい。
*10)二月庚寅条。
*11)吉川真司「律令官人制の再編過程」(「第Ⅱ章」註(41)書。初出は一九八九年)。
*12)寺崎保広「考課木簡の再検討」(『古代日本の都城と木簡』吉川弘文館、二〇〇六年。初出は一九八九年)。
*13)按察使については福井前掲書、坂本義種「按察使制の研究」(『ヒストリア』四四・四五、一九六六年)など参照。設置記事は養老三年(七一九)七月庚子条。
*14)「養老三年七月一九日 按察使訪察事条事」(『類聚三代格』巻七 牧宰事)
*15)とは言え、(2)があくまで「善最」の言上に留まるように、当然ではあるが昇進の決定は最終的には太政官・天皇が行う。(1)の「黜陟」も同様と考えられる。
*16)考課令1内外官条、同67考郡司条。
*17)坂本註(13)論文。
*18)「称挙」という用語は、令には確認できないが、「あげ用ひる」(『大漢和辞典』)といった意と考えられ、式部省に命が下っていることから、職員令13式部省条の「勲績を校定す」「功を論じ封賞す」といった手続きを指すと考えられる。
*19)四月丁巳条。
*20)養老二年(七一八)四月癸酉条。
*21)「按察使訪察事条事」(註(14)前掲)には「訪察」基準が「国郡」「国郡官人」を対象としたことが示されている。
*22)「第Ⅱ章」註(9)参照。
*23)対象は「巡察使の記す国郡司」とある(大宝三年一一月癸卯条)。
*24)渡辺前掲論文。ただし「公廨」の語義については、山本前掲論文による批判もある(一〇頁以下。前掲)。なお、「給与」にカギカッコを付した意味については後述。
*25)前者については、公廨田からの獲稲である以上、このような意味での(1)物的給与制度に該当しないことは明らかである。
 なお、国司と公廨田における直接生産過程との結合は、(あ)大宝令においても、支給対象は国府ではなく、国司であること(「天平九年度但馬国正税帳」〔『復元天平諸国正税帳』現代思潮社、一九八五年〕、一六二頁。「天平一二年(七四〇)遠江国浜名郡輸租帳」〔『大日本古文書 編年編 二』、二五八頁〕)、(い)これも国司に対して支給される事力を役して耕作するという解釈が、古記に見えること(『令集解』在外諸司職分田条)、(う)養老令において国司給与としての性格がより明確になった職分田に大きな支障なく移行していること、などから傍証される。なお、(い)の事力の国司に対する支給については、大宝令制における明証はないが、大宰府官人に対しては「大宰率(帥)から品官に至るまで」支給されたことが確認され(和銅二年〔七〇九〕六月癸丑条。霊亀二年〔七一六〕八月壬子条も参照)、国府においても官職に応じて国司に対して支給されていたと考えられる。
 したがって、(ア)公廨田獲稲は、上記のような意味での、純然たる(1)物的給与制度とは言えない。
 そもそも、律令法上は国司に支給されるのは公廨田であり公廨田獲稲ではない。
 恐らく、渡辺の用いる「給与」は、労働の対価として個人の収入となるもので「給料」などとほぼ同義と考えられる。
 しかし、渡辺の指摘による限り、そのような意味での「給与制度」は、国司に関しては大宝令制下の国家的制度としては基本的に存在しない。基本的給与が公廨田である以上、国府財源と国司個人への「給与」は未分化と考えられるからである。律令制国家における直接生産過程からの分離の在り方を豊かに捉えるためにも、給与制度の歴史的特質の把握が前提であり、まず踏まえるべきはこのような給与の在り方である。
 とすれば、少なくとも大宝令制下の国司制度において、「給料」とほぼ同義で「給与」の語を用いること自体、問題であろう。
 給与は、差し当たり「支給し与える。また、その物」という一般的な意義で基本的に用いるべきであり、とすれば国司に対する給与は公廨田獲稲ではなく、公廨田と見るべきである。
 ただし、本稿では行論上、「給料」の意味で「給与」という語を使わざるを得ない場合もあるので、その場合はカギカッコを付す。
 なお、筆者が渡辺らの研究成果の意義を全面的に否定するわけではないことは、本稿第Ⅹ章参照。
*26)同条古記は「官人に供給する」とするが、あくまで注釈であり令文上に規定があったとは考えられない。
*27)三谷芳幸「田令公田条・賜田条をめぐって」(『日本歴史』七二六、二〇〇八年)など参照。
*28)借貸制に関する近年の研究としては、山本祥隆「借貸考―律令国家地方支配の一側面ー」(『続日本紀研究』三八五、二〇一〇年)などがある。なお、山本論文では借貸制の意義として、物的給与制度に准ずる側面(得分)が否定されているわけではないが、災害対策としての意義が強調されている。本稿では直接生産過程からの分離の在り方の追究という観点から、経済的利益の追求の側面に注目する。
*29)「天平九年度和泉国監正税帳」(註(25)書、三六頁)。
*30)天平六年(七三四)正月丁丑条。
*31)ただし、第Ⅱ期の国司借貸制について、国司のこの制度の利用は上限額に比して少額であったことが指摘されており、特に七三二年の事例は頗る少額である(薗田香融「出挙ー天平から延喜までー」〔『日本古代財政史の研究』塙書房、一九八一年。初出は一九六〇年)。仮に第Ⅰ期にこの制度が存在したとしても、それを利用する形での経済的利益の追求には国郡司も消極的であったと考えられる。なお、このような状況については山本註(28)論文が強調する自然災害の影響も考えられるが、ここでは立ち入らない。
*32)薗田註(31)論文。
*33)大税賑貸の不正につき、国郡司・里長が糾弾されているが(和銅五年〔七一二〕五月辛巳条)、支配層の政策的課題の中で大きな位置を占めていたとは言えないであろう。
*34)なお、この事例は表1ー№6と重複する。表2ーAー№7では、「(1)律令に熟さず」「(2)使人が不適格」「(3)不正発覚」の三点が対象事項となっているが、国郡司の監察が問題となる表1ー№6で対象となるのは「(3)不正発覚」である。
*35)ただし、第Ⅴ期には、(ア)律の規定の発動を明示する事例を五~六例、確認できる。しかし、後述のように一般的な民政への発動を示す事例は二例に過ぎず、またその発動の在り方にも問題がある(年数も第Ⅴ期の方が若干、長い)。何より、第Ⅰ期とは政策的課題が大きく変わってきており、単純に両者を比較することはできない。少なくとも、第Ⅰ期の(ア)律の規定の在り方を後述のような形で把握することの障害にはならない。
*36)福井前掲書。
*37)「第Ⅱ章」註(36)参照。
*38)後述のように、(エ)経済的特権の剥奪は支配層によって重視されていない。
*39)「試練」の本質をなす「系譜を申す儀」は、系譜が問題になる以上、当然ながら(ア)身分制的差別と連動するものだが、一方で「試練」においては「筆記試験」が課せられており、こちらは(イ)同質性・ディスポティシズムの原理と連動すると考えられる(拙稿E)。
*40)前述のように、第Ⅰ期における規律の個別事例の特徴は、総事例・規律発動総数に対する「×」の割合の高さだが、その基本的手段となっている公文監査は良人共同体の構造を前提にしている(「第Ⅱ章」註(28)参照)。これは、(α)「人格的身分的結合関係」の秩序によって、国内行政の問題が克服され、(γ)「単一的支配」が維持される関係になっていることを示していると考えられる。. を把握することである。
 この課題は、本質的には「権限配分に関する意識的・計画的原則」(以下、「原則」*1))に基づく権力組織が、この列島の地方の場において唐からいかに継受され、展開していくかを把握することに他ならない。
 なお、本来、この課題に対応するには平安期まで含めた分析が必要だが、作業が膨大になったため、今回は八世紀を主とする分析に留めた。
 関連する研究は枚挙にいとまがないが、同じ理由で言及は最小限に留めた。ご了承願いたい。
 また、正史の引用については煩瑣を避けるため、基本的に出典を省略の上、条文名のみを示し*2)、史料の年次があらかじめ示されている場合には原則としてこれも省略することにした。
 また、律令制国家の地方行政機構には大宰府なども含まれるが、本稿では国・郡を主たる検討対象とし、後述の手法から国郡司制の分析を通して上述の課題に接近することにする。

(2)本稿の手法

 本稿で、この課題に対応するための手法は、国郡司制における. 「単一的支配」

(1)直接生産過程からの分離

・事実関係

 まず、(1)物的給与制度について。
 まず、前記の借貸制は、七三四年(天平六)に、国司のそれについて上限が定められた*26)後、七三八年(天平一〇)に廃止された*27)。
 次に、七四五年(天平一七年)には、(ア)諸国の「公廨」の定額と(イ)その利稲を正税欠失の補填に充てる旨が定められた*28)。
 これは、従来、「公廨稲制」と言われてきた制度であるが、近年ではこの呼称に批判が提示されており*29)、本稿では使用しない。しかし、後述のように、それに公出挙利稲が充てられるようになったことは、画期的な意義があると考える。
 そこで、本稿ではこの制度を「出挙公廨制」と名付け、分析することにする。
 七四五年の発令においては、前記の(ア)・(イ)が示されるに過ぎないが、七五七年(天平宝字元)において、国司が「公廨を貪る」状況が指摘され*30)、実態面において(ウ)国司の給与にも充てられていたことが知られる。
 この(ウ)は(1)物的給与制度としての意義を有する。
 そして、直接生産過程からの分離を、第Ⅰ期よりも大幅に進行させるものであったことは間違いない。
 「出挙公廨制」は、「公廨田」における国司自身の直接生産過程や百姓層とのそれとの結合なしに、経済的利益が得られるのである。
 しかし、国郡司のかかる分離を基本的目的とした制度とは言えない。
 まず、発動対象は、あくまで国司のみであり郡司は含まれない。
 また、そもそも基本的政策目的は国府財政維持・再建にあり、物的給与制度としての側面はあくまでその一環に過ぎない*31)。実際、既述のように(ウ)の部分は七四五年の法令では触れられておらず、法的保障が与えられているわけではない。その点では、第Ⅰ期の「公廨」からの「給与」支給と状況は変わらないのである。
 次に、(2)私出挙については、七三七年(天平九)に私出挙「禁断」政策*32)が出されていることを指摘できる。しかし、国郡司の、少なくとも大半は対象外であった*33)。

・まとめ

 第Ⅱ期においては、(1)物的給与制度としての意義のある措置として、「出挙公廨制」を指摘できる。しかし、対象や政策目的からすれば、国郡司を直接生産過程から分離させるための措置とは言えない。(2)私出挙における私出挙「禁断」政策の在り方も、この想定と合致している。
 「意識の内部の支配」の項で述べたように、第Ⅱ期には国郡司の経済的利益の追求が問題視されているが、直接生産過程からの分離という形での対応はなされていない。すなわち、第Ⅱ期においても. を指摘できると考える。


*1)基本的に、令の引用は日本思想大系本(岩波書店、一九七六年)に、律の引用は『訳註日本律令』(東京堂出版)による。
*2)律令制国家における五位と六位以下の区別については、さしあたり、虎尾達哉「律令官人社会における二つの秩序」(『律令官人社会の研究』塙書房、二〇〇六年。初出は一九八四年。以下、虎尾〔達〕A論文。)、「律令官人社会における二つの秩序」(『律令国家史論集』塙書房、二〇一〇年。以下、虎尾〔達〕B論文)など参照。なお、虎尾(達)の見解は以下、基本的にこの両論文による。
*3)和銅元年七月乙巳条。
*4)虎尾(達)前掲A・B論文。
*5)拙稿C参照。
*6)拙稿C
*7)三六〇頁以下。
*8)ただし、以上の昇進について、国郡司制の場合は、(a)官職ごとの評定の評価基準の点で一般官人と異なる特徴がある。
 まず、郡司制については「最」規定が存在せず、考課令67考郡司条に独自の四等の考第基準が設けられた(他に戸令33国守巡行条に郡領の能不規定がある)。これは、外位であることによると見られ、「人格的身分的結合関係」において独自の形態をとることが本質的原因と考えられる。
 次に、評価基準の明確化がさらに徹底していることを指摘できる。すなわち、考課令54国郡司条(同55増益条)は、戸口・熟田の増減によって、国司の掾以上、郡司の少領以上の考課を上下すべき旨を規定している。戸口・熟田の増減は、「善」「最」基準と比べても、極めて具体的・即物的基準であり、その意味では一般官人以上に評価基準が明確化していると言えよう。
*9)拙稿「郡領の『試練』の意義ー早川庄八説の意義と課題ー」(以下、拙稿E)参照。ただし、以上の昇進・位階制の位置付けは律令制国家の「意識の内部の支配」における制度的な位置付けの問題に過ぎない。すなわち、郡司が外位を忌避し内位に固執していることが指摘されており(大町健「律令制的外位制の特質と展開」〔「第Ⅰ章」註(15)書。初出は一九八三年〕)、このような制度的位置付けとは別に、現実の在地首長層の内面においては、内位自体の保持が在地首長層にとって重要な意義を有したと考えられる。
*10)なお、本稿での給与は基本的に「支給し与える。また、その物」といった意味で、必ずしも労働対価としての「給料」の意味ではない。「第Ⅲ章」註(25)参照。
*11)ただし、大宝令においては、国司(及び大宰府官人)へ支給される田地は「公廨田」とされていた(郡司および太政大臣以下の職分田は「職田」。後者は養老令では田令5職分田条に規定されている)。
 この「公廨田」の「公廨」については、(ア)官衙経費に充てられる経済的実態と見る立場(渡辺晃宏「公廨の成立ーその財源と機能ー」〔『日本律令制の構造』吉川弘文館、二〇〇三年〕)、(イ)母法である唐令との継受関係を重視し、「官衙官庁の舎屋およびその収納物」としての意義を強調する立場がある(磐下徹「郡司職分田試論」〔『日本歴史』七二八、二〇〇九年〕一一五頁以下。山本祥隆「出挙未納と公廨」〔『国史学』二〇一、二〇一〇年〕も同様の立場。なお、(イ)の用法は(ア)の前提ではあるが、(ア)では、より「経済的実態」としての側面が強調されている)。
 いずれにせよ、国という行政機構の維持が前面に出た名称であり、国司個人への給与という側面は言わば二次的な位置付けになっていることになる。
 とすれば、後述のような(1)物的給与制度による国郡司の直接生産過程からの分離という課題認識は、大宝令編纂時にはますます存在しなかったと見るべきであろう。
 なお、以下、渡辺・山本の見解はこの論文による。
*12)同条「それ官人、所部の界内において空閑地ありて、佃ることを願えば、任に営種することをゆるせ」。なお、大宝令文は養老令文と異同があると考えられるが、この種の開墾権規定の存在は否定されていない(服部一隆「大宝田令荒廃条の復原」〔『班田収授法の復原的研究』吉川弘文館、二〇一二年。初出は二〇〇六年〕など参照)。
*13)内五位は、官位相当制によれば、大国・上国の守のみであり、外五位は大宝官位令の規定では郡司になるが大国・上国の守以上に希少と想定される。
*14)外五位への位田支給については、律令法に必ずしも明確に規定されているわけではない。しかし、「神亀五年三月二八日太政官奏」(『類聚三代格』巻五)に外五位への位田支給について定められているが、その根拠は「禄料の色、未だ処分あらず」であり、史料上、「禄料」とはあるものの、位田についても「処分あらず」という状況であったと見られる。したがって、外五位が支給対象から明確に排除されていたわけではないと見られる。このため、本稿では外五位が位田の支給対象に含まれるものとした。なお、同奏以後の位田支給については、田令4位田条の令釈・古記によれば同奏の「内位の禄料、半を減じこれを給え」が発動されるようであり、とすれば内位の半分とは言え外五位にも位田が支給されることになる。この解釈に従えば大宝令においても外五位に位田を支給するのが令意であった可能性が高い。
*15)同条の「諸司の食料の事」が月料に当たるとされる(早川庄八「律令財政の構造とその変質」〔「第Ⅰ章」註(20)書。初出は一九六五年〕)
*16)律令制国家の給与制度の研究史については、山下信一郎「日本古代給与制度研究の回顧と展望」(『日本古代の国家と給与制』吉川弘文館、二〇一二年)など参照。
*17)(a)は、支給対象が給禄条に「凡そ在京文武職事」と明記されていることから、国郡司が支給対象外であったことは明らかである。(c)について、国司が支給対象外であることは、長山泰孝の指摘がある(「徭役と給糧」〔『律令負担体系の研究』塙書房、一九七六年〕一一六頁)。大炊寮の支出であることからも、郡司も同様と見るべきであろう。
*18)外五位への位禄の支給についても、位田同様、律令法には明確な規定は存在しない。しかし、註(14)前掲の「神亀五年三月二八日太政官奏」において(1)「禄料の色、未だ処分あらず」(前記)とあり、位田同様、支給対象から明確に排除はされていなかったと見られること、(2)「内位の禄料、半を減じこれを給え」(前記)と規定されており、位禄については外五位が支給対象とされたことは確実なこと、からすれば、律令法においても外五位は(b)位禄の支給対象に含まれると想定されていたと見られる。
*19)なお、九世紀半ばと考えられる、福島県いわき市の荒田目条里遺跡2号木簡によれば、郡司職分田の田植えが、里刀自以下の三六名の「田人」に命じられている。同木簡については平川南「里刀自論」(『古代地方木簡の研究』吉川弘文館、二〇〇三年)、磐下註(11)論文など参照。
*20)なお、大宝令制下では田令公田条の公田地子が太政官送進されなかったとする説(虎尾俊哉「公田をめぐる二つの問題」〔『日本古代土地法史論』吉川弘文館、一九八一年。初出は一九六九年〕など)では、国司に「公廨」が給与されていたとされるが、この説は否定されている(鎌田元一「公田賃租制の成立」〔『律令公民制の研究』塙書房、二〇〇一年。初出は一九七三年〕、亀田隆之「公田地子の太政官送進」〔『奈良時代の政治と制度』吉川弘文館、二〇〇一年。初出は一九七二年〕など)。ただし、近年の渡辺論文では、以上の研究状況を踏まえた上で、国司への「公廨」支給が指摘されているが、これについては後述。
*21)給禄条対応唐令条文(復旧第一条)には「諸て、百官毎歳の禄。外官は一等を降せ。」(仁井田陞『唐令拾遺』東京大学出版会、一九三三年)、復旧第四条には「諸て禄、外官は籤符到る日により給え」とあり、唐においては地方官(外官。但し、前者に「一等を降せ」とあるので中央官人より減額されるようである。)を含むすべての官職(百官)が支給対象となったことは明らかである。なお、築山治三郎『唐代政治制度の研究』(創元社、一九六七年)など参照。
*22)大部分が六位以下の下級官人である地方官人の直接生産関過程からの分離が未徹底であることは、石母田も認識しているが(三六六~七頁)、(a)季禄の支給対象を「すべての官人」(三五一頁)とするように、給与制度における国郡司の独自の在り方は踏まえられていない。
*23)この措置を私出挙の全面禁止政策と見る従来の見解は否定されており(梅村喬「いわゆる私出挙禁止令の理解について」〔『日本古代社会経済史論考』塙書房、二〇〇六年。初出は、一九九一年〕。なお、私出挙に関する氏の見解は全て同論文による)、問題となるのは私出挙自体ではなく、上級官人のそれによる百姓層の経営破壊であるとされている。なお、三原康之「村落社会の展開と農事慣行」(『歴史学研究』八五九、二〇〇九年)なども参照。
*24)同条自体については、差し当たり村尾次郎『律令財政史の研究』(吉川弘文館、一九六一年)二八八頁以下参照。出挙制に関する一九九〇年までの研究史については、小口雅史「日本古代における『イネ』の収取についてー田租・出挙・賃租論ノートー」(『古代王権と祭儀』吉川弘文館、一九九〇年)など参照。近年の研究としては三上喜孝「出挙・農業経営と地域社会」(『歴史学研究』七八一、二〇〇三年)、同「古代東アジア出挙制度試論」(『東アジア古代出土文字資料の研究』雄山閣出版、二〇〇九年)など参照。
*25)名例律官当条~免所居官条。なお、除免官当については、以下、基本的にこれらの条文による。
*26)弾正台についての近年の研究としては、佐藤全敏「弾正台と日本律令国家」(『日本史研究』六〇一、二〇一二年)などを参照。地方監察機能については、福井俊彦『交替式の研究』(吉川弘文館、一九七八年)なども参照。なお、福井の見解は基本的に以下、同書による。
*27)巡察使を含む中央派遣使に関する近年の研究としては、市大樹「朝使派遣と国司」(『文化財論叢Ⅲ』奈良国立文化財研究所、二〇〇二年)など参照。
*28)なお、従来、特に意義が強調されてきた国郡司への監察手段として公文監査がある(福井俊彦前掲書、五一頁以下など参照)。また、調庸などの輸納については、この中の民部省勘会制の意義が特に注目されてきた(福島正樹「中世成立期の国家と勘会制」〔『歴史学研究』五六〇、一九八六年〕、梅村喬『日本古代財制組織の研究』吉川弘文館、一九八九年など)。
 しかしながら律令法及び八世紀後半までの律令制国家における「単一的支配」の前提としては、重要な意義を持たなかったと考える。
 その主要な根拠は、公文監査が基本的に、事実上、規律と連動しないと見られることである。
 すなわち、(1)正税帳によって把握できる正倉の欠失については、少なくとも天平期までは放置されていたことが既に指摘されており(早川「第Ⅰ章」註(20)論文、二七~八頁、註(19)など)、(2)調帳・庸帳(倉庫令(10)調庸物応送京条)によって把握できる調庸の違期・未進についても、規律が発動されるのは宝亀(第Ⅳ期)以後である(表2-Aー№67・70など。福井前掲書、一一六頁以下)。
 なお、(2)については№67・70では「坐せよ」「科決」といった「一般的表現」(後述)が用いられており、(ア)律の規定の明確な発動は大同期以後(表2-Aー№154)となる(№70では「除名」が発動された可能性があるが、それは「官物の隠截」を対象としており調庸の違期・未進ではない。また後述のように発令当初は明示されていなかったと見られる)。
 以上から、八世紀後半までは、公文の監査によって国内行政に問題が発覚しても、規律を発動して対応を強制する措置は、基本的に取られなかったと考えられる。
 とすれば、この時期までは、公文監査は地方行政機構における「単一的支配」の維持に直接、つながるものではなかったと考えるべきであろう。
 以上は、公文をもたらす「公使」、そして「公使」と中央政府との質疑応答の、律令制国家における意義と関わるものと考えられる。
 「公使」の中で、後世、もっとも重視されたのは朝集使であり(福井前掲書、五六頁など参照)、考課令61大弐以下条において国内の人事・勤務状況を報告するという、地方行政機構の維持・運営の上では根幹とも言うべき機能を担っている点で、その位置付けは律令法まで遡ると考えられる。
 しかしながら、養老令で朝集使の職掌として直接、規定されているのは、この大弐以下条における前述の事項に対する「弁答」のみである。一方、この朝集使は多くの公文も携え上京するが、それに関わる規定は「朝集使に附し、太政官に送れ」(公式令21諸司会式条)のような形で、文書の作成・対勘手続きの中で、いわば間接的な形で触れられているに過ぎない(ただし、大宝令では賦役令貢献物条において貢献物を京上する機能が規定されていたと見られるが、ここで問題とする質疑応答と公文との関係とは関連しない)。
 すなわち、朝集使の職掌において第一義的意義を占めるのは、中央の担当官司の質問に対する「弁答」であり、それがもたらす公文は第二義的意義しか有さなかったと考えられる。このような意義の在り方は、他の「公使」においても同様であったと見られ、七一二年(和銅五)に官人が「律令に熟せず、多く過失あり」との状況が問題となった際、地方に対し第一に要求されたのは「(「公使」が)問に随いて弁答し、礙滞すること得ざれ」(五月乙酉条。表2-Aー№7〔表1ー№6〕))であった。
 以上は、律令制国家において、中央政府と「公使」との、質疑応答が極めて重要な意義を有していたことを物語るものである。質疑応答が口頭によること、口頭伝達が呪術的意義を有していたこと(早川庄八『宣旨試論』岩波書店、一九八九年。近年の成果として渡辺滋『古代・中世の情報伝達ー文字と音声・記憶の機能論ー』八木書店、二〇一〇年)などを考慮すると、これは、国内行政が良人共同体の首長である天皇への奉仕であるという律令制国家の擬制的な共同体構造に基づくものと考えられる。
 そして、前述の口頭伝達の呪術的意義を踏まえれば、質疑応答はそれ自体が意義を有していたと考えられ、必ずしも規律の発動をもたらすものではなかったと考えられる。
 なお、前記の民部省勘会制は主に「格」・「式」など九世紀以降の史料から復元されており、それを律令制国家の本来の国司監察制度の在り方として典型化することには疑問の余地がある。その意義は地方行政機構における「単一的支配」の展開を追究する中で把握すべきであろう。
*29)なお、律令法における基本的処罰規定である律には(イ)「欠失補填」はほとんど規定されていないと考えられる。
 前述のように、本稿における(イ)「欠失補填」は「正倉における官物の欠失を官人(主に国司)が補填する措置」である。
 従って、まず問題になるのは「正倉における官物の欠失」に関連する条文である。
 律における、この問題の基本的関連編目は厩庫律である。その中の「庫」に関する規定が該当するが、ただし、同律で言う「庫」は官庫一般を指し、「官物」もそこに収載された「官ノ物」一般を指す。正倉及びそこに収載された租稲・出挙稲などは、その中の一部として同律の規定の発動を受ける形になる。
 次に問題となるのは「補填」に関する規定である。
 律における「補填」に相当する概念は、「陪填」・「陪償」・「備償」・「備」・「償」・「徴」などであり、主に名例律以贓入罪条にその手続きが規定されている(『訳註日本律令 六』三七一頁、註4)。
 では、厩庫律における「補填」の規定はどのようになっているだろうか。
 現存する日本の厩庫律においては、(1)監臨私自借条に「備償」・「徴」、(2)放散官物条に「徴」、(3)課税廻避不輸条に「陪填」の規定が見える。
 (1)では「官物」を借りた官人が「備償」し得なかった場合、貸し出しを認めた「判署之官」に「徴」する旨が、(2)では「官物」を「散用」した場合には「徴」しない旨が、(3)では、「課税及び官に入るの物」を詐匿して輸さない、あるいは巧偽して濫悪の物を進めた場合に、「陪填」する旨が、それぞれ規定されている。
 しかし、(イ)「欠失補填」の根拠となり得るのは、(1)のみである。
 (2)は、そもそも「徴」しない規定であり、また「散用」は「祀畢り食訖る」の意とあり、同条の「祠祀・宴会に供す」に関わるもので、仮に正倉の欠失に関わるとしても特殊事例とせざるを得ない。(3)は百姓を対象にした規定で、本来、国郡司には発動されず(長山泰孝「調庸違反と対国司策」〔註(17)書。初出は一九六九年〕二二五頁)、また租稲・出挙稲などが発動範囲に含まれるかも疑問の余地がある(日本律は、疏議において唐律の「租調地税之類」という注釈を「調庸雑税之類」と改変しており、「租」が除外されたことが分かる)。
 そして、(1)もー国司が大税借貸して死亡した際の規定を制定する際に準用されているが(表2ーAー№33)ー「官物」を借りた場合の規定であって、これも正倉欠失としては限定された事例と言わざるを得ない。以上は、素材を現存する日本律に限定しているが、仮に唐厩庫律の規定が全て日本律に継受されていたとしても、このような限定的な傾向は変わらない(唐厩庫律の条文を参照のこと)。
 そもそも、(3)の「盗に准じて科罪し、法に仍りて陪填す」との文言が端的に示すように、「陪填」などは「科罪」ではなく、律の本来の趣旨は五罪を基本とした「科罪」にあるから、限定的な事例しか規定されていないのは当然と言えるかもしれない。表2-Aの実例においても、(ア)律の規定が(イ)「欠失補填」発動の根拠として機能している事例は確認できず、後者の法的根拠・淵源としては極めて限定的な意義しか持たないと考えられる(なお、同一事例において、(ア)律の規定・(イ)「欠失補填」双方が発動される〔あるいはその可能性を示す〕事例は、あくまで別個の規律として発動されている〔№14・21・63・115・154〕)。
 以上から、(ア)律の規定においては、(イ)「欠失補填」はほとんど規定されていないと言っても過言ではないと思われる。
*30)福井前掲書など参照。
*31)吉岡眞之「『延暦交替式』二題」(『古代文献の基礎的研究』吉川弘文館、一九九四年。初出は一九七八年)は令文には、本来、「専当」の語はなかったとするが、北宋天聖倉庫令の対応条文には「専当」の語が確認され、唐令・日本令にも存在していたと考えられる。なお、天聖令の引用は『天一閣蔵明鈔本天聖令考証』(中華書局出版、二〇〇六年)による。
*32)福井前掲書など参照。
*33)他に選叙令22職事官患解条、考課令67考郡司条に解任規定が見えるが、前者は病が一二〇日間に及んだ場合など、後者は郡司が考で「下々」の評価を得た場合の規定であって、一般的規定とは看做しがたい。
*34)なお、位階の剥奪期間が終わってからの再叙位については、名例律除法条・選叙令37除名応叙条・軍防令35犯除名条などを参照。
*35)官当については、名例律官当条に「見任を解く」規定が見える。
*36)しかし、(2)については、(ウ)「解任」との一定の関連を指摘することは可能である。というより、(ウ)「解任」の基本的法的淵源はこの(2)の解任規定ではないかと考えられる。
 まず、第一の点について。(2)の解任規定が形態上、(ウ)「解任」に転化するには.

と考えられる。

・(ウ)「解任」
 
 表1には(ウ)「解任」の発動事例は見られない。
 しかし、表2-A・Bにおいては、(ウ)「解任」の発動を確実に命じた事例が五例、昇進との「中間形態」とも言える№12を含めれば六例が確認される。事例数のみを見れば、(ア)律の規定~(エ)経済的特権の剥奪の中で最高値となる。
 このような(ウ)「解任」の頻用の原因としては、さしあたり(1)既述のように、考課令に解任規定が存在し、法的淵源となったと考えられること*37)、(2)発動に当たって煩瑣な法解釈が必要な(ア)律の規定と異なり(後述)、簡便であること、などが考えられる。
 この場合、前述のように支配層による重視が指摘できる(ア)律の規定との関係が問題となる*38) 。
 結論から言えば、(ウ)「解任」はその補完的位置を占めていたと考えられる。
 (ウ)「解任」は第Ⅰ期における発動数こそ多いものの、発動対象となる行政行為が特定されるので、少なくとも発動蓄積の少ない第Ⅰ期においては国内行政全般に直接、影響を及ぼし得る局面は限られている。発動されるのは、あくまで個別的事例であり、主力と位置付けられているのは、体系的法典である(ア)律の規定と見るべきであろう。表1における「中央派遣使」の活動において、その発動事例が見られないのも、基本的にはこのためと考えられる。
 以上から、第Ⅰ期には.  本稿の手法において基本的前提となるのは(α)~(γ)の在り方・特徴の把握であるが、これらは、いずれも本来は石母田正が提示した*4)概念である。
 従って、本稿の手法は基本的には、石母田正が「古代官僚制」で提示した各論点*5)に従って、国郡司制を分析し、(Ⅰ)・(Ⅱ)を把握することに他ならない。
 研究の現段階においては、石母田説が「理論」としての位置を占めると考えられる以上*6)、この手法の採用は当然である。むしろ、「古代官僚制」発表後、四〇年近くを経るにもかかわらず、かかる分析が行われていないことー換言すれば、「一つの序論」(三四一頁)とされた「古代官僚制」にそのような役割さえ与えてこなかったことーは、「石母田以後」の学説の「事実と理論の緊張関係」の欠如を物語っている。問題とされるのは、こちらの方であろう*7)。

2.概念の基本的内容・意義

 以下、(α)~(γ)の各概念の、本稿における基本的内容・意義を述べる。

(1)(α)「人格的身分的結合関係」

 「人格的身分的結合関係」とは、言うまでもなく、天皇と良民・官人との「君恩」と奉仕の関係を指す*8)。かかる関係が、律令制国家の国家機構の基本的特質を規定することについては、拙稿Aで述べた*9)。
 本稿で、基本的な分析対象とするのは. 3 寫作任務 : 建構一個模式
1. 書名:論文計劃與研究方法,原文名稱:Proposals that work : a guide for planning dissertations and grant proposals , 4th ed.  前半期に維持・運営における根幹としての位置を占めた(β)「意識の内部の支配」は、律令制国家においては(α)「人格的身分的結合関係」と不可分であった。
 この点は、(β)「意識の内部の支配」の基本的媒介である位階・系譜が、同時に(α)「人格的身分的結合関係」における「基本的紐帯」であることからも明らかである*1)。
 そういう意味では(β)「意識の内部の支配」は(α)「人格的身分的結合関係」から分離されておらず、後者を基軸とする維持・運営がなされていたと考えられる。
 しかし、後半期に維持・運営の主力となる規律は、(α)「人格的身分的結合関係」に規定されつつもそこから分離されており、その意味で「非人格的」統治装置であったと考えられる。
 規律とは、五位以上の「大夫」であっても初位の下級官人でも、発動されれば服従しなければならない性格のものである。官人個々人と天皇との間の(α)「人格的身分的結合関係」の在り方と規律の発動・適用は直接には連動しない。
 もとより、(α)「人格的身分的結合関係」による規定性はあるが、律令制国家においても本質的にはそこから分離されていると見るべきであろう*2)。.  このような想定の傍証を示すのが、郡司制の動きである。
 まず、前半期における律令制的な(α)「人格的身分的結合関係」の展開の中で、「譜第」という系譜意識が成立し、後半期に入っても郡内に強固な権威を確立していくことは前述の通りである。
 ただし、この「譜第」の意義は第Ⅴ期の支配層には認識されていなかったと見られ、「延暦一七年制」によって「譜第之選」は停止される。この時期の郡司制における「行政の『相対的独立化』」は、前半期から形成されてきた律令制的な(α)「人格的身分的結合関係」の意義をいったん、否定した上で追求されたと見られる。
 しかし、弘仁期に入って、「行政の『相対的独立化』」は「譜第」と結合するようになる。
 まず、八一一年(弘仁二)に(ア)「譜第之選」が復活する*3)。この時の任用基準制度は「まず、譜第を尽くし、その人なくんば、後に芸業に及べ」と、(1)「譜第」・(2)「芸業」と二つの基準を設定するものだった。第二義的基準とはいえ「行政の『相対的独立化』」を示す「芸業」が「譜第」とともに挙げられ、この二つの基準によって郡制・郡司制を運用する形になっているのが特徴である。
 (ア)においては、このような意味で「行政の『相対的独立化』」と「譜第」は結合している。
 さらに、その一〇年後の八二二年(弘仁一三年)には、前述の(イ)「後期擬任郡司制」*4)が成立する。この措置は三年の間、「雑務を歴試」するものであり、「雑務」の遂行を重視している点で「行政の『相対的独立化』」と軌を一にする。
 古文書類の署判から正員郡司が減少し、こちらの擬任郡司制が一般的となることは既に指摘がある*5)。
 しかし、擬任郡司制はあくまで正員郡司への任用を前提としており、(イ)「後期擬任郡司制」もこの点は変わらない。その正員郡司への任用は(ア)が維持されており、「譜第」を第一義的基準としているから、その意味では「後期擬任郡司制」も「譜第」と連動して存在している。
 (イ)においては、このような意味で「行政の『相対的独立化』」と「譜第」は結合していると言える。
 もちろん、「行政の『相対的独立化』」と「譜第」との結合の形態は、(ア)・(イ)ともに異なっており、その具体的在り方も今後、追究しなければならない。
 しかし、大勢としては、両者が結合していく傾向は指摘できよう。
 石母田の指摘を考慮すれば、「譜第」が「行政の『相対的独立化』」の基礎となった可能性を指摘でき、律令制的な(α)「人格的身分的結合関係」の展開を踏まえ、弘仁期以降、郡制における「行政の『相対的独立化』」が進行した可能性を示す。
 とすれば、第Ⅴ期(後半期)における「行政の『相対的独立化』」という「基本的政策課題」も、ー支配層にどこまで認識されていたかは別としてー前半期に展開された(α)「人格的身分的結合関係」を基礎にしていた可能性もあると考えられる。
 もちろん、以上は石母田の指摘と郡司制の推移に関する概括的理解を根拠にした一仮説に過ぎず、断案とすることはできない。
 しかし「八世紀(及び九世紀以降)における地方行政機構の展開過程」を考える上では、無視できない可能性と考える。
 
2.地方行政機構の展開過程と律令制的地方行政機構の特質.  本稿の構成は以下の通りである。
 まず、次章で、律令法の分析から、(Ⅰ)(「基本的課題」)・(Ⅱ)を析出し、律令制国家の基本的体制における地方行政機構の特質を把握する。
 次に、第Ⅲ章~Ⅶ章で、前述の時期区分に従い、八世紀における(Ⅰ)(「基本的政策課題」)・(Ⅱ)を把握し、第Ⅷ章でその展開過程を跡付ける。
 その上で、第Ⅸ章で前述の本稿の研究史的意義に関わる三つの問題ー(1)「組織された強力」としての律令制国家・古代国家の特性・特徴、(2)「人格的身分的結合関係」の在り方、(3)「中央集権国家像」の克服ーについて知見を提示する。
 最後に、第Ⅹ章(「結び」)で、八世紀の地方行政機構論深化の上での課題を示すことにする。


*1)石母田正『日本の古代国家』(『石母田正著作集 三』岩波書店、一九八九年。初出は一九七一・七三年)二一八頁。拙稿「機構論の意義と課題」(以下、拙稿A)参照。なお、『日本の古代国家』からの引用は、以下、原則として頁のみを記す。
*2)六九七年(持統一〇)までは『日本書紀』(日本古典文学大系本)、同年から七九一年(延暦一〇)までは『続日本紀』(新日本古典文学大系本)、七九二年(延暦一一)~八三三年(天長一〇年)は『日本後紀』(訳注日本史料本)、八三三年(天長一〇)~八五〇(嘉祥三)までは『続日本後紀』(新訂増補国史大系本。表2-Aー№74で引用)による。『日本後紀』逸文は、他の史料に見えるものであっても訳注日本史料本に従い『日本後紀』として引用する。他の引用史料は、原則として新訂増補国史大系本による。また、史料の傍線は基本的に引用者による。
*3)三四三頁。「有位者集団」のような支配層独自の「具体的歴史的形態」が存在するかどうかは疑問としても(拙稿「機構論における『人格的身分的結合関係』とは何か?ー任用過程研究の意義ー」〔以下、拙稿B〕参照)、支配層は何らかの「具体的歴史的形態」を以て律令制国家において存在していたと見られる。従って、このような形態自体を否定することはできない。
*4)拙稿A参照。
*5)但し、後述のように検討する論点は限定する。
*6)拙稿A・B参照。
*7)現在の古代国家論における「事実と理論の緊張関係」の欠如ないし著しい不足については、拙稿B参照。
 なお付言すれば、古代機構論におけるこのような問題は、国家機構の問題に「無概念、無前提に接近する」(四頁)研究姿勢・「方法」に端的に表れている。
 例えば、本稿と課題認識の上で共通する学説として畿内政権論を挙げることができる(吉田孝『律令国家と古代の社会』岩波書店、一九八三年。早川庄八『日本古代官僚制の研究』岩波書店、一九八六年。大津透『律令国家支配構造の研究』岩波書店、一九九三年など)。本稿の本質的分析対象とも言うべき「原則」は、日本律令制国家の支配層が唐から継受した統治技術であり、本稿の課題は唐の統治技術がいかに日本に継受され、展開していったかを追究するものとも言える。従来、このような課題を主に追究してきたのが畿内政権論だからである。畿内政権論が、「支配の具体相の把握の緻密化」という要請に一定度、応える意義があったと考えられる以上、その問題意識を継承するのは当然と言える(拙稿B参照)。
 しかし、畿内政権論では機構論的概念はほとんど用いられていない。例えば、「原則」のような統治技術は、この学説においては、「首長制」と対比される「律令制」として把握される。しかし、この概念は、「原則」「人格的身分的結合関係」「単一的支配」のような機構論的概念ではなく、また日本律令の実態とも整合しないので、日本におけるかかる技術の在り方・特質を把握することは不可能である。
 このような問題は、現在に至るも克服されていない。
 例えば、行政機構と不可分の政務処理過程を詳細に分析した西本昌弘は、八~一〇世紀以降の支配層の特質の推移を「律令官人制→平安貴族制」として捉える(「古代国家の政務と儀式」〔『日本古代の王宮と儀礼』塙書房、二〇〇八年。初出は二〇〇四年〕)。しかし、「律令」と「平安」、「官人制」と「貴族制」は位相を異にする概念であり、この学説はシェーマとして成立していない。この点は、例えば、「律令(法)」→「格式(法)」・「平城(京)」→「平安(京)」、あるいは「専制」→「貴族制(政)」といったシェーマと比較すれば明らかであろう。
 これは、支配層の歴史的特質を捉えるための概念が未整理のまま分析が展開されていることを示しており、西本が検証した政務処理過程の変化とこのシェーマとの関連が明らかではない点は、この問題と対応する(なお、言うまでもないが、ここでは位相の整合性が問題であり、例示したシェーマの意義・有効性などについては問わない。また、西本の「貴族制」は、「専制」と対比される、いわゆる「貴族共和制」的な政治形態を指すわけではないが、ここでは比較的、近似する概念を例示として用いた。)。
 むしろ、このような研究の現状把握・反省がないまま、坂上康俊のように古代国家論における国家の一般的指標の意義を疑問視する論者も表れている(「古代国家をどうとらえるか」〔『歴史評論』六九三、二〇〇八年〕)。
 そして、坂上は、国家の一般的指標の一つである「機構を通じた統治」の意義の疑問視につながる見解を提示している。
 まず、六世紀に成立した部民制・国造制・ミヤケ制などをにより「機構を通じた統治」が始まったとする従来の見解を提示する。
 これに対し、(1)五世紀の倭国を国家としての要件を満たしているとし、(2)従来の見解については、六世紀に部民制その他を通じて「機構を通じた統治」が行われていたかは疑わしい、とする(五頁)。(2)によれば、五世紀の倭国も当然、「機構を通じた統治」は行われていなかったことになる。
 すなわち、(1)‘五世紀の倭国は国家としての要件を満たしつつも、(2)’「機構を通じた統治」は行われていなかったことになるのであって、「機構を通じた統治」は国家認定の指標にはならない、ということになる(五頁)。
 しかし、本稿で指摘した問題を見ても、従来、「古代国家の完成型、あるいは確立型」(坂上論文、三頁)とされた律令制国家においてさえ、「機構による統治」の日本古代における具体的な在り方は、まともに検討されたとは言い難い。五・六世紀の問題についても、本来、このような分析の結果、得られた知見を踏まえた上で検討されるべきであろう。
 すなわち、日本古代史研究の現状は、指標の是非を論ずる以前の段階にある。
 本稿の課題・手法は、以上のような現状の打破の上で不可欠の意義を有する。
*8)拙稿B参照。
*9)拙稿Bではかかる関係の特質にせまるための課題として、官人の「国家機構との結合の仕方」・「任用過程」研究を挙げた。この指摘自体に修正の必要はないと考えているが、八世紀に検討時期を限定した本稿では、「国家機構との結合の仕方」の分析から「人格的身分的結合関係」の特徴を析出した石母田の学説に基本的に依拠できるので、「任用過程」の分析は行わない。
*10)「基本的紐帯」「基本的媒介」などの用語については、拙稿「在地首長層と天皇ー令制郡領任用制度の検討ー」(以下、拙稿C)参照。
*11)拙稿A参照。
*12)この二点に、(ウ)「『人格的身分的結合関係』の成立が、官職に先行する原則」を加えた三つの特徴が、「人格的身分的結合関係」を分析する際の基本的視座(視角)ともなる点については、拙稿B参照。まお、「任用過程」を分析しない本稿にあっては、(ウ)は基本的視座にはならない。
*13)三六〇頁。なお、石母田はこの支配の内容を示す記述において、官人が「自発的に労働し規律に服従する」(傍線、引用者)としているが、「自発的」という言葉は古代の実態にもそぐわないと考えるので、「内面から」と言い換えた。
*14)三五〇頁
*15)二一五頁
*16)地方行政機構論において「原則」と関わる研究としては、国司・郡司の職掌・機能分析が挙げられる。大町健は、律令法における国司の機能を「行政的機能」、郡司の機能を「共同体的諸関係の総括」とし、その展開を追究している(「律令制的郡司制の特質と展開」〔『日本古代の国家と在地首長制』校倉書房、一九八六年。初出も同年)。また、土地買権の分析から国・郡の機能の変化を追究した研究もある(加藤友康「八・九世紀における売券について」〔『奈良平安時代史論集 上』吉川弘文館、一九八四年〕など)。しかし、その限りでは、それがいかなる「原則」の変化を示すのかは明らかでなく、国司・郡司、国・郡の機能変化の意義の把握も十分には行い得ない。
*17)なお、第4項「昇進と官僚制 官僚制と天皇制」で展開された「意識の内部の支配」は、「単一的支配」と直接、連動するものではない。拙稿A参照。
*18)なお本稿では規律による処置が発令された段階以降を発動、実際にそれが執行された段階以降を適用とする。
*19)吉田一彦「官当の研究」(『ヒストリア』一一七、一九八七年。以下、吉田A論文)。
 吉田は、この指摘に基づき日本における(ア)律の規定の機能を疑問視している。
 これに対し、大町健が批判を加え、「中国から継受された律も、日本の古代社会において機能していた」とする(「違勅罪と職制律の構成」〔『成蹊大学経済学部論集』三九ー二、二〇〇九年。以下、大町A論文〕。一五七頁、註(8))。
 その根拠を要約すれば、(1)官人の刑罰に(ア)律の規定が発動・適用されないことは、官人の天皇への人格的隷属によると考えられ、単に律の機能の問題ではないこと、(2)職制律は、日本の実情に合わせて唐律を取捨選択・改変していること、である。
 大町が、(ア)律の規定が「日本の古代社会において機能していた」とする主要な根拠は(2)と考えられる。運用面から(ア)律の規定の機能を論じた吉田に対し、言わば編纂過程を重視した見解と言える。
 筆者は、本文で述べたように国家機構における「単一的支配」の維持の上で、大宝律の成立は画期的意義があったと考えている。このような(ア)律の規定の意義・機能は、社会的秩序を維持するための刑罰全般の在り方・特徴に視野を広げても同様と考える。
 したがって、その意義を否定するかのような吉田の見解に従うことはできない。(ア)律の規定が条文通りに発動・適用されなかったとはいえ、律令制国家の刑罰の運用において、何らかの機能を果たしていたと考えるべきであろう。
 しかし、律令制国家の「単一的支配」の在り方・特徴の把握を深化させようとすれば、単にそれが機能していたことを指摘するだけで十分とは思われない。
 必要なことは、(ア)律の規定の意義を踏まえた上で、日本の律令制国家の刑罰運用におけるその独自の機能を具体的に把握することであろう。この点で運用面の分析は不可欠と言って良い。
 したがって、この側面に注目した吉田の手法及び(ア)律の規定が条文通りには運用されていないという指摘自体は評価されてよい。言い換えれば運用面を捨象し基本的に編纂過程からその機能を論じた大町説の分析は不十分と言わざるを得ない。
 要請されている作業は、吉田の指摘を踏まえつつ、(ア)律の規定の意義・機能を具体的な実証過程の中から把握していくことである。具体的には、(a)刑罰体系の中で(ア)律の規定が具体的にどのような位置付け・機能を有していたのか、(b)実際に発動・適用された刑罰といかなる関係にあるのか、といった点が追究されるべきであろう。
 この際、前提となるのは、(ア)律の規定の意義・機能は、日本律令制国家の独自の特質に規定されるのであり、近現代の国家は勿論、同時代の唐とも基本的に異なるという認識であろう。(ア)律の規定が条文通りに運用されないことは、近現代人の目からは「空文化」と映りやすいが、古代においても同様の認識が成り立ちえるかは、それ自体、実証の課題である。
 むしろ検討に当たっては、条文通りの運用が行われなかったとしても、(ア)律の規定には何らかの意義・機能が存在する可能性があるという認識が前提になるべきであろう。この点で吉田の見解は、吉田の批判する(「古代国家論の展望ー律令国家論批判ー」〔『歴史評論』六九三、二〇〇八年。以下、吉田B論文〕三六頁)近代的思惟に、むしろ規定されていると見るべきではないだろうか。
 本稿の分析は、(ア)律の規定に対象を限定するものではないが、地方行政機構における「単一的支配」の在り方・特徴の分析を通して、その意義(位置付け)・機能の把握に寄与する知見を提示できると考える。
 なお、大町はその後、発表した「違勅罪の歴史的展開と官人統制」(『成蹊大学経済学部論集』四二―一、二〇一一年。以下、大町B論文)において、本来、(ア)律の規定と無関係だった違勅罪が、延暦期に職制律22詔書施行違条と結び付いたとする。これは(ア)律の規定の運用面における意義・機能の追究としての意義も有する見解と言える(ただし、大町自身の見解は不明)。
 また、吉田はその後、「律令国家」・「律令制国家」という概念に疑問を呈している(吉田B論文)。
 この見解については、以下の二点の疑問を提示し得る。
 第一に、「律令国家」・「律令制国家」という概念の有効性についても、律令の意義・機能を具体的に分析する中で検討すべき問題であるということである。既述のような(ア)律の規定及び令の意義・機能の分析を経ずに、直ちにかかる概念を疑問視あるいは否定する見解は支持し難い。
 第二に、概念検討の根拠・目的が正当とは言えないことである。
 吉田はイギリス近代法学・国家学における「法の支配」「人の支配」という概念の適用(吉田B論文、三六頁)や「分かりやすさ」の追求という目的(同、三九頁)に基づき、「律令国家」「律令制国家」という概念を検証している。
 しかし、設定される概念は一般的な国家論的意義を踏まえた上で、それを事実によって検証し、第一義的には「日本古代の具体的事実の内的連関」(二八八頁。拙稿「『事実と理論の緊張関係』の現代的意義ー現代日本と古代行政機構論ー」〔以下、拙稿D〕参照)によって必然化されねばならない。
  勿論、概念の不断の検証自体は、歴史学の立場からの国家論が「事実と理論の緊張関係」から生み出されるという意味では当然である。しかし、かかる緊張関係を踏まえない検証は決して研究の前進には寄与しない。
*20)当時の法概念としては、欠失のほかに「欠負」・「欠損」などがある。前者は「官物その他を借りて償填せざるものを言う」、後者は「腐敗遺漏等による欠を言う」とされる(早川庄八「公廨稲制度の成立」〔『日本古代の財政制度』名著刊行会、二〇〇〇年。初出は一九六〇年〕二四頁、註(14))。ここでの「欠失」は官物の欠失一般を指しており、「欠負」「欠損」なども含む。
*21)したがって、官物犯用などの場合に発動される可能性のある名例律彼此倶罪条・同以贓入罪条などの贓物の徴収なども含まれるので、部分的に(ア)律の規定と重複する。しかし、便宜的にこのように規定しておく。なお歴史的前提としては、『隋書倭国伝』に見える「贓物」の賠償刑などが想定される。
*22)ただし、この事例については、(ウ)「解任」の発動に当たって、服務規定違反が一〇事以上の場合という限定が設けられている。
*23)和銅五年五月甲申条の「別式」全文と見られる『貞観交替式』所引の「式」(四九頁)には「犯により解任の輩」とある。他に、発動対象行為あるいは「解任」という措置自体を、「犯」「罪」「坐」などとする史料として、管見では以下のものが挙げられる(法制史料と重複する場合は基本的に『続紀』の条文を示す。(2)は表2-A所収の事例であるので出典を略す)。(1)天平五年(七三三)二月乙亥条、(2)「天平一六年(七四四)一〇月一四日勅」(表2-Aー№38)、(3)天平宝字二年(七五八)九月丁丑条(表2-Aー№47)、(4)延暦元年(七八二)元年閏正月壬寅条、(5)同年六月乙丑条、(6)同二年(七八三)七月庚子条、(7)同五年(七八六)六月己未朔条(表2-Aー№92。文中の「郡を罪す」が「解任」を指す〔宝亀四年八月庚午条〕)。
*24)もとより、剥奪対象が一部のみの場合もある。例えば、表2-Aー№25の事例は位禄のみが剥奪対象となっている。もとより、位禄は被処罰者の息長真人臣足の経済的特権の中で最も大規模であったと見られるが、その全てが剥奪されたわけではない。しかし、(エ)経済的特権の剥奪の、(イ)「欠失補填」に比しての特徴は全ての特権の剥奪が可能である点にある。
*25)現代的・社会的意義については拙稿Dで述べた。なお、以下、拙稿Dと重複する部分がある。
*26)三頁。
*27)にもかかわらず、二〇一三年五月現在、政府及び主要政党は、事実上、「原発存続」政策を堅持している。
*28)四頁。
*29)鬼頭清明『律令国家と農民』(塙書房、一九七九年)など。
*30)加藤友康・櫛木謙周「はじめに」(『日本史講座二 律令国家の展開』東京大学出版会、二〇〇四年)など参照。
*31)もちろん、当事者たちはこの概念を使用しているわけではないが、事実上、これが徹底しているということになる。
*32)引用は、『日本近代思想大系 一三 歴史認識』(岩波書店、一九九一年)二五五頁。
*33)青木和夫『日本の歴史 三 奈良の都・改版』(中公文庫、二〇〇四年。初出は一九六五年)五一頁。この記述は持統太上天皇の内面描写になっているが、「律令制度」に対する当時の一般的認識を反映したものと言える。
*34)坂本太郎「郡司の非律令的性質」(『坂本太郎著作集七 律令制度』吉川弘文館、一九八九年。初出は一九二九年)二八四頁。なお、坂本は戦後の一九六〇年に発表した『日本全史二 古代Ⅰ』においても、(ア)律の規定を含む律令導入の意義を高く評価しており、その具体的機能については必ずしも否定的ではなかったようである(『坂本太郎著作集一 古代の日本』吉川弘文館、一九八九年。一三〇頁参照)。
*35)三五〇頁。
*36)なお、「単一的支配」の在り方の把握は日本古代における「私」から「公」の分離の在り方の問題でもあり、したがって、「公」「私」の在り方の問題でもある(三五〇頁以下参照)。ここでは、日本古代の「公」「私」概念の内容などには立ち入らないが、このような問題にも一定の知見を提示し得るものと考える。.  まず、(Ⅰ)について。この点については、第Ⅰ・Ⅱ期同様、(α)「人格的身分的結合関係」の分析結果を重視すべきであろう。
 すなわち、(ア)身分制的差別の固定化を支配層の「基本的政策課題」として指摘できる。
 もっとも、このような固定化の唯一の法制化である嫡々相継制の発令は第Ⅲ期初年の七四九年であり、以後、かかる固定化に関する措置は見られない。しかし、(1)内外階制による(ア)身分制的差別の固定化は、前述のように七五七年まで確認できること、(2)神火事件などは第Ⅲ期を通じて、嫡々相継制による(ア)身分制的差別の固定化が維持されていることを示すこと、(3)第Ⅲ期には、後述のような(α)「人格的身分的結合関係」の秩序維持の政策的位置の低下が確認できないこと、の三点からすれば、かかる固定化を第Ⅲ期を通じての支配層の「基本的政策課題」としてよいと考える。
 次に、(Ⅱ)について。
 まず、(β)「意識の内部の支配」の位置付けについて。
 この点については、郡司制の措置に顕著なように未だ一定度、存在していたと考えられる。しかし、国司制の措置に見えるように、第Ⅱ期以上にその政策的位置が低下している側面は否定し難く、また、その動揺の激化への対応措置としての有効性には疑問を指摘せざるを得ない面がある。
 すでに律令法における地方行政機構の維持・運営における根幹とも言える位置は失われていると考えてよいであろう。
 次に、(γ)「単一的支配」の位置について。
 直接生産過程からの分離は第Ⅲ期においても支配層の政策的課題とは認識されていない。
 しかし、規律はその政策的位置を上昇させており、またこれに対応すると見られる新たな展開も見られる。
 (β)「意識の内部の支配」の状況を考えれば、(γ)「単一的支配」の規律が地方行政機構の維持・運営における主力としての位置を占めたと考えてよいであろう。.  以上の諸研究によって、個別的事実についての認識は深化されたと言える。
 しかしながら、早川が本来、問題にしたこの時期における天皇制の「権威と権力」の在り方については提起がなく、問題が個別的論点に矮小化している傾向を指摘できる。
 例えば、(1)は早川の先の評価を継承するが、「中国的皇帝」の内実については、桓武が唐の太宗を君主の理想としたとの指摘に留まる。
 (2)も皇統意識の専論と言ってよい。
 (3)は皇位継承などの在り方について独自の知見を示すが、継承される「権威と権力」の在り方について正面から論じているわけではない。
 (4)の昊天祭祀は神祇令に継受されず、河内が指摘するように「国家祭祀が支配の思想的基盤に位置するためにその改変がきわめて困難であった」(三〇頁)ことからすれば、桓武朝に始まるその挙行は天皇の権威の変質と関わる問題と見られる。しかし河内論文においては、論点が「皇位の安定化と直系継承」という天皇における権力維持(広い意味での権力闘争)に収斂されている。
 もとより、本稿も主題の関係もあって、この時期の天皇制とその「権威と権力」の在り方について独自の知見を提示することは不可能である。
 そこで、ここでは本稿の検討結果をも踏まえて、早川説の基本的問題を指摘しておきたい。早川の提起を受け、上記の問題に迫る上での前提となると考えられるからである。
 第一に、歴史的評価が桓武個人の「政治的理念」の追求を以て下されており、支配層の全体的意思・歴史的特質による規定性・拘束性が無視されていることである。
 その原因は、桓武の歴史的評価の前提となる君主制の基本的認識が踏まえられていないことと考えられる。
 そもそも、君主は支配層を離れて自己運動することができない(石母田「第Ⅰ章」註(1)書、三六三頁)。君主とは支配層が「共同利害」を維持するために擁立した存在なのであり、いかに専制的であってもこの性格から逸脱することはできない。
 しかし、早川説ではこの基本的前提が無視されている。早川の既述の評価は天皇と貴族層との権力的な対抗関係の追究に基づいており、後者の前者に対する屈服の結果、桓武が「絶対的な権威と権力」を追求するに至るとされる。桓武朝における後者の前者に対する規定性・拘束性は、事実上、否定されている。
 しかし、既述の君主制の性格は権力闘争によって消滅する性格のものではなく、桓武が直面した課題も支配層の「共同利害」の維持であったはずである。彼の強大な権力はあくまでこの課題の克服のために存在するのであって、貴族を上層部とする支配層の全体的意思・歴史的特質による規定性・拘束性から逃れることはできない。
 この点は、彼自身の「政治的理念」・思惟もこのような規定性・拘束性の中に存在することをも意味する。
  まず、彼の「政治的理念」自体がこのような規定性・拘束性の中に存在する。
 このような「理念」は彼個人が抱いたものであったとしても、あくまで「共通利害」の維持という課題に対応するためのものであり、支配層の全体的意思・歴史的特質から離れて存在することはあり得ない。
 次に、彼の「政治的理念」を具現化するには政策化による「国家意思」への転化が必要である。したがって、その意義が支配層全体に一定度、共有されねばならない。
 桓武が権力闘争の次元において貴族層を圧倒していたとしても、このような手続きの必要性が否定されるわけではなく、その意味で前記のような規定性・拘束性の中にあるのである(そもそも、このような規定性・拘束性の中にあるからこそ、権力闘争において貴族層を圧倒する必要があるのである)。
 さらに、仮に「政治的理念」において彼個人が自らを中国皇帝に擬したとしても、彼の思惟全体は日本の支配層の歴史的特質に規定されていると見るべきであろう。
 実際、その天命思想は、「革命」を天武系から天智系への交替に限定していたとされており(早川B論文)、これは天孫神話をイデオロギー的根拠とする、日本独自の天皇制の在り方(したがって、天皇に神的・超越的権威を与える良人共同体の在り方)に規定されていたためと考えられる。彼の「中国皇帝」志向はー仮に存在したとしてもー基本的にはその主観的自己認識と見るべきであろう。
 早川論文や(1)佐藤論文によって天命思想の影響が指摘されているにもかかわらず、(3)仁藤論文が指摘するように「新王朝理念」とは整合しない措置が見られることは、このような規定性・拘束性の所産と考えられる。
 桓武の「政治的理念」のみに注目し、このような規定性・拘束性を無視することは、天皇に対する歴史的評価の手法としては問題があるとせざるを得ない。
 第二に、早川の想定それ自体が本稿の検討結果と整合しない。
 まず、(1)「中国的な、律令法のたてまえとする絶対的な権威と権力をあわせもつ皇帝」の追求という想定自体が成立し難い。
 早川の想定する「皇帝」とは、畿内政権の政治的首長から脱却した天皇の姿である。
 すなわち、早川説では桓武朝において律令法導入時に存在した唐とは異なる日本の独自の特質が消滅したとされているのであり、だからこそそれは「中国的」とも称される。畿内政権論自体が成立し難いのは既に指摘のある通りだが(伊藤循「国家形成史研究の軌跡ー日本古代国家論の現状と課題ー」〔『歴史評論』五四六、一九九五年〕、同「畿内政権論争の軌跡とそのゆくえ」〔『歴史評論』六九三、二〇〇八年〕など参照)、ここでは早川の、このような桓武朝についての見解が問題となる。
 結論から言えば、それは成立しないと言わざるを得ない。
 後述のように、第Ⅴ期(桓武朝)における「基本的政策課題」は「行政の『相対的独立化』」であったと考えられるが、「人格的身分的結合関係」・良人共同体の意義を、政策的にも国家の基本的体制の問題としても否定するものではなかった(本項「5.小結」の「『行政の『相対的独立化』』と(α)『人格的身分的結合関係』」及び第Ⅷ章参照)。
 唐とは異なる日本独自の特質である「人格的身分的結合関係」・良人共同体に規定された政策を追求し、国家体制を維持する天皇制の在り方は、いかなる意味でも「中国的」ではなく、したがって(早川が想定するような意味での)「絶対的な権威と権力をあわせもつ」天皇とも言えない。
 また、これと関連し(2)桓武と大宝・養老律令との関係の理解に問題を指摘できる。
 早川によれば、桓武は大宝・養老律令が理念とした天皇制の在り方を具現化しようとしたということにならざるを得ない。
 しかし、桓武朝(第Ⅴ期)の「基本的政策課題」である「行政の『相対的独立化』」はそのような性格のものとは認められない。この課題は、新たな天皇制の模索とも関わるものと見られるが、(最終的な歴史的評価は措くとしても)大宝・養老律令施行による成果を踏まえつつも、それによる地方行政機構の維持・運営の行き詰まりを踏まえ、新たな課題に対応するものと見られるのであって(本稿第Ⅷ章)、大宝・養老律令の理念の具現化とは評価できない。
 法典編纂の問題においても、桓武が命じたのは形式上は養老律令の「付属法」に過ぎない格・式の編纂であり、それは、既述の桓武朝の課題と対応するものと考えるべきであろう。
 早川によれば、大宝律令は天皇と貴族との「妥協の産物」(一六〇頁)に過ぎないとされており、養老律令もその「限界」を大きく払拭できたと想定されているわけではない。仮に早川のこのような大宝・養老律令の想定に従うとしても、桓武はその「限界」を克服した新たな律令の編纂を命じたわけではなく、「付属法」の編纂に大宝・養老律令の理念の具現化を見出すのは無理であろう。
 以上のように、早川説自体は成立し難いと言わざるを得ない。
 ただし、筆者は桓武の「政治的理念」の追究の意義を否定しているわけではない。
 後述のように光仁即位の政治的意義は、「人格的身分的結合関係」における「政治的可変性」の可能性を考える上でも重要である。光仁自身が自らの即位の意義をどのように認識していたかは、この問題を考える上で有力な検討素材の一つであり、その後を襲った桓武においても同様である。
 既述のような規定性・拘束性の中で桓武がどのような「政治的理念」を抱いたかは地方行政機構の維持・運営の歴史的展開を考える上でも重要と言って良く、また、その検討は早川が問題とした天皇制における「権威と権力」の変質の把握につながるものと考える。
*15)三月丙申詔(以下、「三月丙申詔」)。
*16)延暦一七年(七九八)四月甲寅条。なお、ここで「国造の兵衛」が停止された理由については、必ずしも審らかにはできない。
 まず、確認すべきは、「延暦一七年制」の目的である「譜第」郡司の再生産の阻止について、この措置は一定度も寄与はするが、その意義は限定的であることである。
 当然ながら、「国造」は「譜第」の系譜に属する。ここでの「国造」は当然、所謂「新国造」であるが系譜としては「旧国造」に連なっており、この「旧国造」は評制施行時に基本的に評造に任用されたと見られるので(大化元年〔六四五〕八月庚子条。拙稿G参照)、「新国造」は「難波朝庭以還譜第重大」「立郡以来譜第重大」に該当するからである。
 また、兵衛は郡司子弟から選抜されており郡司に任用される場合がある(軍防令37兵衛考満条・同38兵衛条・『延喜式』式部上149諸衛任官条など)。
 とすれば、「譜第」でもある「国造の兵衛」を停止することは、「譜第」郡司の再生産の阻止に寄与する。
 しかし、「国造」は「譜第」の一部に過ぎない。「譜第」は「大化前代」の在地首長層のみならず、七世紀後半以降に台頭した新興首長層なども含むからである。
 とすれば、「譜第」郡司の再生産の阻止という観点からは、「国造の兵衛」の停止は限定的な意義しか持たない。兵衛制からのかかる再生産を全面的に阻止しようと思えば、本来、「国造の兵衛」だけでなく、「譜第」の系譜に属する兵衛全てを停止しなければならず、抜本的には兵衛の郡司子弟からの選抜か、その郡司への任用を停止しなければならない。
 にもかかわらず、なぜ、「国造の兵衛」だけが停止の対象となるのかは不明とせざるを得ない。
 差し当たり、嫡々相継制によって廃止されていたと見られる、選叙令13郡司条の本註「それ大領・少領は才用同じならば、まず国造を取れ」との関連も想定されるが、「延暦一七年制」は直ちに本註部の規定の復活を示すものではなく、兵衛の停止という形ではなく、この本註規定の廃止を明示すればよい。
 以上から、この措置の意義については現在、不明とせざるを得ない。
*17)「延暦一九年(八〇〇)一二月四日太政官符」(『類聚三代格』巻七)。
*18)延暦一八年(七九九)五月庚午条。
*19)延暦一七年四月甲寅条(註(16)前掲)、延暦一八年五月庚午条(註(18)前掲)、「延暦一九年一二月四日太政官符」(註(17)前掲)、弘仁二年(八一一)二月己卯条・「同年同月二〇日詔」(『類聚三代格』巻七)。
*20)後世の儀式書に見える郡領の任用手続きの詳細な儀式次第については、森公章「試郡司・読奏・任郡司ノートー儀式書に見える郡司の任用方法ー」(『古代郡司制度の研究』吉川弘文館、二〇〇〇年。初出は一九九七年)・拙稿Cなど参照。
*21)以上、森公章「律令国家における郡司任用方法とその変遷」(註(20)書。初出は一九九六年)一四三頁。
*22)毛利憲一「郡領任用政策の歴史的展開」(『立命館文学』五八〇、二〇〇三年)一一頁。以下、毛利の見解は基本的に同論文による。
*23)毛利の(ア)・(イ)に関する説明は次の通りである。
 (ア)については、国司権限・郡領「私門」の抑制という課題に対し、桓武が〈新王朝〉観念を有していたため、「譜第之選」停止という従来の「王権との歴史的奉仕関係」を否定する措置が取られ、「改新」以来の一大「改革」と位置付けられたとする。
 (イ)についても、「芸業」は地方統治の現実との乖離をもたらす基準であり、そのような統治を担う実務能力ではないが、桓武の〈新王朝〉観念・「中国皇帝的徳治理念」によって設定されたとする(以上、一三頁)。
 この説明は成立し難いといわざるを得ない。
 まず(ア)について。
 前提として概念の問題について述べておく。毛利の「王権との歴史的奉仕関係」とは「労」に端的に示される、天皇への在地首長層の「祖」以来の奉仕(及びそれに対する「君恩」)の関係である。筆者はこの関係は「人格的身分的結合関係」の概念で把握すべきと考える(後述)ので、以下、この概念で統一する。
 また、以下の行論は後文及び本項「5.小結」の「『行政の『相対的独立化』』と(α)『人格的身分的結合関係』」・第Ⅷ章での分析を前提とする。
 さて、「譜第之選」停止は「人格的身分的結合関係」自体の否定ではない。否定されたのは「郡務」の直接の前提という位置付けに過ぎず、それ自体の意義が否定されたわけではないのである。
 そもそも「譜第」の在地首長層が、「立郡」以来の奉仕を根拠として郡領に任用されることも必ずしも否定されたわけではなかった。
 まず、「延暦一七年制」は「譜第」の在地首長層を郡領任用から排除するものではない。同制が否定したのは、郡領が「譜第」という特定系譜によって継承されていく(「相襲う」)ことー言い換えれば、郡領に任用される系譜が原則として特定・限定されていることーであって、「譜第」の任用自体が否定されているわけではない。
 一方、郡領任用手続きにおいて系譜(「祖」以来の奉仕・「労」)もチェックされていたと考えられる。「芸業」との関係に問題が残るものの、孝徳朝以来の奉仕を根拠として「譜第」の在地首長層が郡領に任用される余地も存在していたと考えられる。
 それ故、「延暦一七年制」は「天武系」を主とする従来の天皇に対する在地首長層の奉仕を否定するものではない。
 したがって、毛利の理解では、同制における「譜第之選」の停止が直ちに「改新」以来の一大「改革」とされた必然性を説明することはできない。
 次に(イ)について。
 これについては、桓武が〈新王朝〉・「中国皇帝的徳治理念」を有すると、なぜ郡領の任用基準が「芸業」とされるのかが説明されていない。
 あえて推測を巡らせば、学芸能力たる「芸業」においては中国典籍の素養が重要な位置を占めたと見られ、それに秀でた者を従来、在地首長層を任用してきた郡領に任用することにより、桓武が「中国的」国家を造り上げようとしたとの可能性が想定される。
 しかし、この想定は成立し難いであろう。
 第一に、任用に当たって「芸業」のような学芸能力が基準とされなかったのは、郡領だけではない。任用基準が具体化されないのは、日本律令制国家の官職任用一般の特徴であり(拙稿C参照)、本来、このような意味での「中国的」国家を造るのであれば全ての官職の任用基準制度に発動する方が自然であろう。
 第二に、郡領任用における措置を一つの手段として「中国的」国家を目指すのであれば、なぜ、在地首長層の任用が維持され、唐の県官のような中央派遣官にされなかったかが問題となる。もちろん、この批判に対しては、本来、このような方向性を目指したが、在地首長層の支配を否定できなかったとの反論が予想されるが、このような方向性の模索が実証されているわけではない。
 毛利は(ア)・(イ)を桓武の〈新王朝〉観念によって説明するが、註(14)で述べたように自己運動できない君主の「政治的理念」によって、措置の意義に関わる(ア)・(イ)を説明するのは頗る限界があると言わざるを得ない。君主の「政治的理念」の影響は否定しないが、既述のようにそれは支配層の全体的意思に規定・拘束されており、その意思は支配層の歴史的特質に規定されると考えられる。したがって、基本的には(ア)・(イ)もこのような特質との関連で説明されるべきであろう。
 そして、このような支配層・国家機構の歴史的特質を規定するのが「人格的身分的結合関係」であることは既述の通りである。したがって、この概念を欠いては、「延暦一七年制」の意義を把握することもできないと言える。「王権との歴史的奉仕関係」という概念は放棄し、「人格的身分的結合関係」を使用すべきである。
 他に「延暦一七年制」の意義を把握する上でも一つの前提となる大宝令の郡領任用基準制度の毛利の理解(「郡領の任用と『譜第』―大宝令制の構造と特質ー」〔『続日本紀研究』三三八、二〇〇二年〕)については、拙稿C参照のこと。
*24)「延暦一六年(七九七)一一月二七日太政官符」(『類聚三代格』巻七)。
*25)「延暦一七年(七九八)二月一五日太政官符」(『類聚三代格』巻七)
*26)「延暦一七年(七九八)三月二九日太政官符」(『類聚三代格』巻七)・同年一〇月丁亥条。
*27)「延暦一七年(七九八)三月二九日太政官符」・同年一〇月丁亥条(註(26)前掲)。
*28)「延暦一九年(八〇〇)一二月四日太政官符」(註(17)前掲)。
*29)「延暦一九年(八〇〇)一二月四日太政官符」(註(17)前掲)。
*30)また、「人格的身分的結合関係」のこのような位置は、唐の「才用」規定を継受せず、任用の直接の前提が位階の保持になる一般官人の場合も同様であり、同じく孝徳朝に成立したと認識されていた「公務」・国家機構一般の在り方の「改革」でもあった。
*31)毛利前掲論文。
*32)「延暦一九年(八〇〇)一二月四日太政官符」(註(17)前掲)。なお、唐選挙令は「才用」(「才能」)を審査するための基準(その具体的内容)を明確化している(大隅清陽「律令官人制と君臣関係ー王権の論理・官人の論理ー」〔『律令官制と礼秩序の研究』吉川弘文館、二〇一一年。初出は一九九六年〕など参照)。しかし、言うまでもなくそれは「才用」の語それ自体から導き出されるものではなく、唐の「貴族社会の価値観」(大隅論文、一四一頁)を媒介としたものである。
*33)弘仁二年(八一一)二月己卯条・「同年二月二〇日詔」(註(19)前掲)。
*34)このような認識においては、国内・郡内の情勢は必ずしも任用に当たって重要な要件とはならず、(bー2)のように、「本国」を経ず、式部省が独自に「簡試」する場合が認められると考えられる。
*35)『延暦交替式』の巻末奏上文には「庶(こいねが)わくは、諸国をして遵奉し以て失わ(せしめ)ず」とあり、交替政における国司の失錯を正すことが編纂目的の一つであったことが分かる。
*36)表1-№23。
*37)表1-№25。
*38)なお、国司制で触れた(ⅰ)~(ⅲ)の事例には郡司も関わると見られる。例えば、(ⅰ)の対応措置は「内外の官人」を対象とし、(ⅱ)は「国宰・郡司」の「怠慢」を問題とし、(ⅲ)は「国司以下」の「犯」が問題とされる。しかし、基本的に問題とされているのは国司と見るべきであろう。
*39)四月壬寅条。
*40)梅村喬「公廨稲制と補填法の展開ー専当人補填から共填へー」(『日本古代財制組織の研究』吉川弘文館、一九八九年)一〇二頁など参照。
*41)なお、「訪察」の語は第Ⅴ期の事例では表1-№26の観察使の評定基準(「大同四年(八〇九)九月二七日太政官符」〔『類聚三代格』巻七〕)に見える。
*42)観察使については福井前掲書、大塚徳郎「平城朝の政治」(『平安初期政治史研究』吉川弘文館、一九六九年。初出は一九六二年)、笠井純一「観察使に関する一考察」(『続日本紀研究』一九四・一九五、一九七七・七八年)、春名宏昭『平城天皇』(吉川弘文館、二〇〇九年)など参照。
*43)延暦五年(七八六)四月庚午条(前掲)・「同年同月一九日太政官奏」(『類聚三代格』巻七)。
*44)「大同四年(八〇九)九月二七日太政官符」(註(41)前掲)。
*45)なお、昇進については、五位以上の対象者については、事を量った上での「進階」、六位以下の対象者については、「不次に擢でて」五位を賜与するとされる。
*46)詳しくは記さないが、改訂の重要なポイントは例えば冒頭で「撫育に方ありて戸口増益す」「農桑を勧課し倉庫を積実す」について、増減の「分数」などが定められているように、進階・擢授及び解任の基準を精緻化することにあると見られる。
*47)福井前掲書、一三〇頁以下参照。
*48)なお、拙稿Eでは令制の「試練」の筆記試験について、(1)在地首長層の郡領としての適性評価機能を疑問視し、(2)その意義を在地首長層もディスポティシズムの原理に編成されていることを象徴的に示す点に求めた。今のところ、令制の筆記試験についてはこの見解に修正の必要は感じていない。
 しかし、毛利前掲論文によれば「延暦一七年制」によってこのような「試練」・筆記試験の性格に変化が生じていた可能性を指摘できる。
 すなわち、毛利は同制により「式部省で(「芸業」的)「才用」を審査する階梯はこの時初めて組み込まれた」(一二頁)とする。後述のように、毛利は在地首長層が郡領任用に当たって「甲」(甲・乙・丙などの筆記試験の成績)を競ったと認識しているので、同制においては、筆記試験によって郡領としての適性が評価されたと想定していると考えられる。
 「試練」が法制上、「才用」を審査する場と位置付けられている以上、「芸業」が「試練」・筆記試験で審査される形になるのは当然と言える。
 拙稿Eとの関わりで問題になるのは、それが実質的に在地首長層の適性評価機能を有しているかという点である。
 毛利の指摘の中で、このような評価機能の存在の根拠となるのは前述の在地首長層が筆記試験の成績を競ったとの理解である。これは、弘仁三年(八一二)六月壬子条に、郡領任用につき在地首長層が「第を争い甲を競う」とあるとの認識に基づく。
 しかし、この認識は成立しない。
 該当部分は和学講談所(塙保己一)板行の版本(「塙板本」)を底本とした訳注日本史料本には確かに「第を争い甲を競う」とある。しかし、同本の校異註により三条西家旧蔵本(「三本」)は「第を争い、相競う」とあり、「甲」の字は存在しないことが知られる(六一四頁)。一方、該当部を収載した「同年八月五日太政官符」(『類聚三代格』巻七)には「三本」同様「第を争い、相競う」とあり、新訂増補国史大系本の校異註による限り、写本間の異同は確認されない。『後紀』においても「三本」が「塙板本」の祖本と見られることからも(齋藤融「残存巻について」〔訳注日本史料本〕参照)、現在、把握できる該当部の文字の異同に関する知見の限りでは「第を争い、相競う」が本来の記述であった可能性が高い。
 とすれば、現在のところ、在地首長層が「甲」(筆記試験の成績)を競ったという理解は成立しない。一方、「第を争い」についても該当部が前年の「譜第之選」復活を受けた記述である以上、「譜第」の意と取るべきであり、「譜第の優劣」(「第Ⅴ章」註(2)前掲天平勝宝元年二月壬戌条)を競ったと理解すべきであろう(森註(21)論文)。
 したがって、毛利の指摘の限りではこのような評価機能については確認できないことになる。
 しかし、以下の根拠によってこのような評価機能が存在した可能性を指摘できる。
 すなわち、大宰府が郡領の「才能を歴試」した結果、「未だその人を得ず」という状況に陥ったことが確認できることである(註(17)前掲「延暦一九年〔八〇〇〕一二月四日太政官符」)。
 この史料は前述の「条目」の存在を示すものであるが、ここでの「歴試」は毛利が指摘するように西海道における「試練」であり、筆記試験によるものと考えられる(毛利論文一二頁。ただし「未だその人を得ず」の部分については言及がない)。その結果、「未だその人を得ず」(郡領としての適任者を得られない)状況になったとすれば、筆記試験が適性評価機能を備えていたことになる。
 すなわち、結論的には毛利の想定は支持し得る可能性がある。
 とすれば、(1)はもちろんのこと、ディスポティシズムの原理も単に「象徴」的に示すに留まらないので、(2)も変化することになる。また、これは、「試練」の基本的意義が「意識の内部の支配」の基本的手段に留まらなくなったことをも示している。
 今後、なお検討したいとは思うが、差し当たり第Ⅴ期に「試練」の性格・意義に変化があった可能性があることを指摘しておきたい。
*49)「一一月二七日太政官符」(註(24)前掲)。
*50)「二月二六日太政官符」(『類聚三代格』巻七)。
*51)早川庄八「選叙令・選任令と郡領の『試練』」(「第Ⅰ章」註(7)書。初出は一九八四年)。なお、拙稿Eも参照。
*52)「延暦一六年(七九七)一一月二七日太政官符」(註(24)前掲)。
*53)大町健「「畿内郡領と式部省『試練』」(『日本歴史』四六六、一九八七年)・拙稿E参照。
*54)延暦一八年(七九九)四月壬寅条(註(39)前掲)。
*55)天平宝字元年(七五七)正月甲寅条(「第Ⅴ章」註(9)前掲)。
*56)郡司制においては「意識の内部の支配」の強化措置として積極的意義を有するのは昇進に過ぎないが、対応措置が見られるのは確かである。
*57)福井前掲書、二六四頁。註(42)前掲論文・文献参照。
*58)弘仁元年(八一〇)六月丙申条。
*59)福井前掲書、一三三頁。
*60)「弘仁八年正月二四日太政官符」「天長二年閏七月二六日太政官符」(いずれも、『類聚三代格』巻七)。
*61)米田「第Ⅴ章」註(35)書など参照。
*62)なお「出挙公廨制」については、「延暦五年(七八六)六月一日格」(「延暦二二年二月二〇日太政官符」〔『延暦交替式』〕所引)における前後司間の、「延暦一二年(七九二)二月一五日格」(「貞観八年三月七日太政官符」〔『類聚三代格』巻六〕)における和泉国などの守と掾の、「公廨」の配分率を規定する措置などが見える。
*63)二月壬申是日条。なお、職分田は史料上では「職田」。
*64)正月甲辰条。なお、職分田は史料上は「公廨田」。
*65)同月乙酉条。
*66)八月丁亥条(なお、職分田は史料上は「公廨田」)・九月丁酉条。
*67)「大同三年(八〇八)二月五日太政官符」(『三代格』巻六)。なお、同官符では同年に、「国司俸」の停止に伴い、事力とともに「公廨」((D)-(b))が復活したことになっている。したがって、前年の八〇〇年に職分田・「公廨」とともに事力の復活(及び「国司俸」の停止)が宣言され、八〇一年に至って実施されたということかもしれない。
*68)二月乙丑条。
*69)薗田「第Ⅲ章」註(31)論文七九~八〇頁、山本「第Ⅲ章」註(28)論文一二頁などに言及はあるが、十分に検討されているとは言えない。
*70)「二月五日太政官符」。なお、事力の支給は「天長二年(八二五)閏七月二二日太政官符」により復活(ともに『類聚三代格』巻六)。
*71)そもそも、本稿の「規律」の概念は古代における「罪」「犯」などの概念に必ずしも即しているわけではなく、その認定に限界があることは後述する通りである。
*72)№107の「免官」を(ウ)「解任」と見れば五例、名例律19の発動と見れば六例となる。
*73)吉田A論文。
*74)長山「第Ⅱ章」註(29)論文参照(長山の指摘については同註で関説)。
*75)「一般的表現」の一年あたりの発動頻度は〇.八六~〇.八九になる。表2-Bから第Ⅴ期が最高値であることは明らかと考えられるので、第Ⅰ~Ⅳ期との比較は省略する。
*76)№119の規律発動を『貞観』に従えば一八例、『後紀』に従えば一九例となる。
*77)違勅罪同様、№119の規律発動を『後紀』に従えば一二例、『貞観』に従えば一三例となる。
*78)福井前掲書など。
*79)註(72)で触れた№107の「免官」を、名例律19の発動と見れば一五例、(ウ)「解任」の発動と見れば一六例になる。
*80)吉川真司「律令官僚制の基本構造」(「第Ⅱ章」註(41)書。一九八九年)。ただし、禄を位階と同様の「基本的紐帯」と看做すことはできないことについては、拙稿B参照。
*81)前述の推定のようにそれが財政問題の一環であるとすれば、財政さらにそれを基盤とした職務執行が「人格的身分的結合関係」の秩序から「独立化」していく傾向を示す。
*82)(あ)七八一年(天応元)の詔における「貶降」「顕官の賜与」の宣言・(い)七八六年(延暦五)の「条例」など。
*83)註(19)前掲。
*84)ただし、良人共同体における「人格的身分的結合関係」の「基本的紐帯」である姓の秩序については、『新撰姓氏録』が編纂されたが未完に終わった。なお、長谷部将司「氏族秩序としての『勅撰』漢詩集」(『国史学』一九一、二〇〇七年)、仁藤註(14)論文などに検討がある。
*85)弘仁期以降、本格的に導入される「唐風文化」については君臣関係の維持・強化の側面があり、このような弱点・課題の克服であった可能性がある。「唐風文化」の概況については差し当たり、笹山晴生「唐風文化と国風文化」(『岩波講座日本通史 五』岩波書店、一九九五年)、「唐風文化」と君臣関係の関連などについては長谷部註(84)論文など参照。.

買研究論文

を指摘できる。

・(エ)経済的特権の剥奪

 表1には、(エ)経済的特権の剥奪を命じた事例は見られない。
 表2-A・Bにおいても、一例が確認出来るだけである(№25)。その剥奪対象も位禄であり、一般の国郡司に給与される(A)公廨田・職田、(B)空閑地の開墾権、(D)事力の剥奪事例は見えない。
 その原因としては、差し当たり、特に国司の場合、(A)・(B)・(D)を剥奪されては赴任地での生活を支える基盤がなくなり、職務遂行が不可能であること、などが考えられる。
 以上から、.  前半期に維持・運営における根幹としての位置を占めた(β)「意識の内部の支配」は、律令制国家においては(α)「人格的身分的結合関係」と不可分であった。
 この点は、(β)「意識の内部の支配」の基本的媒介である位階・系譜が、同時に(α)「人格的身分的結合関係」における「基本的紐帯」であることからも明らかである*1)。
 そういう意味では(β)「意識の内部の支配」は(α)「人格的身分的結合関係」から分離されておらず、後者を基軸とする維持・運営がなされていたと考えられる。
 しかし、後半期に維持・運営の主力となる規律は、(α)「人格的身分的結合関係」に規定されつつもそこから分離されており、その意味で「非人格的」統治装置であったと考えられる。
 規律とは、五位以上の「大夫」であっても初位の下級官人でも、発動されれば服従しなければならない性格のものである。官人個々人と天皇との間の(α)「人格的身分的結合関係」の在り方と規律の発動・適用は直接には連動しない。
 もとより、(α)「人格的身分的結合関係」による規定性はあるが、律令制国家においても本質的にはそこから分離されていると見るべきであろう*2)。. 「単一的支配」

(1)直接生産過程からの分離

・事実関係

 (1)物的給与制度について。第Ⅳ期においても、律令法に定められたもの以外に物的給与制度としての意義を有するのは、「出挙公廨制」のみである。しかしながら、前述のような対象・目的に変更は見られない*8)。
 
・まとめ
 
 直接生産過程からの分離については、第Ⅳ期においても支配層の政策的課題とは認識されていないと考えられる。

(2)規律

・表1・表2-A・B・Cの概要

 まず、表1について。
 第Ⅳ期には、第Ⅲ期に続き「中央派遣使」に対する規律の発動命令は見られず、発動事例も見出せない。これは前章で述べたような、国郡司監察における規律発動の困難さも影響しているとは考えられる。
 しかし、基本的な要因は前述の「中央派遣使」の派遣頻度・意義の問題と考えられる(詳細は後述)。
 次に、表2-A・B・Cについて。
 表2-Bによれば、(1)第Ⅲ期に二一例だった「総事例数」は一三例に、(2)五例だった「×」は一例に、(3)一九例だった規律発動総数は一六~一七例になっている。数値的にはいずれも減少しているが、第Ⅳ期は一一年間と、第Ⅰ~Ⅴ期中最小年数しかないので、ある意味でこれは当然である。
 次に、これを表2-Cによって把握する。
 (1)と関わる「年数:総事例数」は「1:1.18」であり、一年あたり一.一八の事例を確認できることになる。第Ⅰ~Ⅳ期の間では最高値である。(2)と関わる「規律発動総数:『×』」は「1:0.05~0.06」で、後者の比率は第Ⅰ~Ⅳ期中、最低値となる。(3)と関わる「年数:規律発動総数」は「1:1.45~1.54」であり、一年あたり一.四五~一.五四回、規律が発動されていることを示す。これは、第Ⅰ~Ⅳ期中の最高値であり、それまでの最高値だった第Ⅲ期の発動頻度を超えていることを示している。
 (1)の「総事例数」は一年あたりで第Ⅰ~Ⅳ期中、最高の割合となっているが、(2)・(3)を見れば、これは基本的に(3)の規律の発動頻度が非常に増加したためと考えられる。
 規律の特徴として. ƛ¸åï¼šè‹±æ–‡ç ”究論文寫作-文法指引,原文名稱:Grammar for the Writing of English Research Papers,語言:繁體中文,ISBN:9575323181. ・(ア)身分制的差別

 ここでは、(ア)身分制的差別に関する事実関係について検討する。
 まず、国司制を含む一般官人に対する措置は、現在の研究段階では、審らかにすることはできない。
 次に、郡司制について。
 郡司制独自の(ア)身分制的差別の強化としての措置としては、神郡における三等親連任禁止規定の解除が挙げられる*3)。これは、特定系譜に属するものが郡領職を独占し得る可能性を開くものであり、郡制という機構における権力掌握の点で、「祖」以来の「労」を蓄積した系譜が、他の系譜に比し優位に立つことを可能にするものでもあった。

・(イ)「同質性」

 ここでは、(イ)同質性に関する事実関係について検討する。
 まず、国司制を含む、一般官人に対する措置は不明な点が多いが、後述の郡司制同様、(イ)同質性を強調する傾向は見えるようである*4)。
 次に、郡司制について。
 郡司制については、(イ)同質性の側面を強化する動きが見える。
 すなわち、「才用」主義の強調である。七〇三年(大宝三)に、「才」が郡司に堪え得るにも関わらず、「当郡」に三等親以上が郡司に任用されていた場合には、比郡に任用することを許す制が下されている*5)。
 もっとも、郡司としての職務遂行には郡内の基盤が必要とみられ、「当郡」で郡司の職務に堪え得る(郡司としての「才」がある)からと言って、比郡でその遂行が可能とは限らない*6) 。したがって、単に「当郡」に三等親以上が郡司に任用されているという理由で、このような措置を実行することは不可能である。
 しかし「才用」主義による任用を励行させる意義はあると見るべきであろう。

・まとめ

 まず、郡司制について述べる。
 郡司制については、(ア)身分制的差別・(イ)同質性ともに独自の措置が見えるが、(ア)身分制的差別の強化のための措置は神郡という特定地域に限定されている。
 従って、政策的な基調は(イ)同質性の強化にあると考えられる。
 国司制を含む一般官人に対する措置は不明な部分が多いが、郡司制同様、(イ)同質性を強化する傾向は見えるようである 。
 このような(イ)同質性への国郡司を含む官人の編成を確立することー言い換えれば、ディスポティシズムの原理を官人たちに浸透させることーが、第Ⅰ期の支配層の重要な政策的課題の一つであったことは指摘できよう*7)。(イ)同質性及びかかる原理は、大宝律令で初めて確立しており*8)、必然的にその浸透は支配層の政策的課題の中で重要な位置を占めたと考えられる。
 国司制について不明な部分は残るが、以上から. 24 研究論文 Research Paper 研究論文 日本企業のコーポレート・ガバナンスと 研究開発投資 ~日本の製薬産業と電気機械産業を.  以上の諸研究によって、個別的事実についての認識は深化されたと言える。
 しかしながら、早川が本来、問題にしたこの時期における天皇制の「権威と権力」の在り方については提起がなく、問題が個別的論点に矮小化している傾向を指摘できる。
 例えば、(1)は早川の先の評価を継承するが、「中国的皇帝」の内実については、桓武が唐の太宗を君主の理想としたとの指摘に留まる。
 (2)も皇統意識の専論と言ってよい。
 (3)は皇位継承などの在り方について独自の知見を示すが、継承される「権威と権力」の在り方について正面から論じているわけではない。
 (4)の昊天祭祀は神祇令に継受されず、河内が指摘するように「国家祭祀が支配の思想的基盤に位置するためにその改変がきわめて困難であった」(三〇頁)ことからすれば、桓武朝に始まるその挙行は天皇の権威の変質と関わる問題と見られる。しかし河内論文においては、論点が「皇位の安定化と直系継承」という天皇における権力維持(広い意味での権力闘争)に収斂されている。
 もとより、本稿も主題の関係もあって、この時期の天皇制とその「権威と権力」の在り方について独自の知見を提示することは不可能である。
 そこで、ここでは本稿の検討結果をも踏まえて、早川説の基本的問題を指摘しておきたい。早川の提起を受け、上記の問題に迫る上での前提となると考えられるからである。
 第一に、歴史的評価が桓武個人の「政治的理念」の追求を以て下されており、支配層の全体的意思・歴史的特質による規定性・拘束性が無視されていることである。
 その原因は、桓武の歴史的評価の前提となる君主制の基本的認識が踏まえられていないことと考えられる。
 そもそも、君主は支配層を離れて自己運動することができない(石母田「第Ⅰ章」註(1)書、三六三頁)。君主とは支配層が「共同利害」を維持するために擁立した存在なのであり、いかに専制的であってもこの性格から逸脱することはできない。
 しかし、早川説ではこの基本的前提が無視されている。早川の既述の評価は天皇と貴族層との権力的な対抗関係の追究に基づいており、後者の前者に対する屈服の結果、桓武が「絶対的な権威と権力」を追求するに至るとされる。桓武朝における後者の前者に対する規定性・拘束性は、事実上、否定されている。
 しかし、既述の君主制の性格は権力闘争によって消滅する性格のものではなく、桓武が直面した課題も支配層の「共同利害」の維持であったはずである。彼の強大な権力はあくまでこの課題の克服のために存在するのであって、貴族を上層部とする支配層の全体的意思・歴史的特質による規定性・拘束性から逃れることはできない。
 この点は、彼自身の「政治的理念」・思惟もこのような規定性・拘束性の中に存在することをも意味する。
  まず、彼の「政治的理念」自体がこのような規定性・拘束性の中に存在する。
 このような「理念」は彼個人が抱いたものであったとしても、あくまで「共通利害」の維持という課題に対応するためのものであり、支配層の全体的意思・歴史的特質から離れて存在することはあり得ない。
 次に、彼の「政治的理念」を具現化するには政策化による「国家意思」への転化が必要である。したがって、その意義が支配層全体に一定度、共有されねばならない。
 桓武が権力闘争の次元において貴族層を圧倒していたとしても、このような手続きの必要性が否定されるわけではなく、その意味で前記のような規定性・拘束性の中にあるのである(そもそも、このような規定性・拘束性の中にあるからこそ、権力闘争において貴族層を圧倒する必要があるのである)。
 さらに、仮に「政治的理念」において彼個人が自らを中国皇帝に擬したとしても、彼の思惟全体は日本の支配層の歴史的特質に規定されていると見るべきであろう。
 実際、その天命思想は、「革命」を天武系から天智系への交替に限定していたとされており(早川B論文)、これは天孫神話をイデオロギー的根拠とする、日本独自の天皇制の在り方(したがって、天皇に神的・超越的権威を与える良人共同体の在り方)に規定されていたためと考えられる。彼の「中国皇帝」志向はー仮に存在したとしてもー基本的にはその主観的自己認識と見るべきであろう。
 早川論文や(1)佐藤論文によって天命思想の影響が指摘されているにもかかわらず、(3)仁藤論文が指摘するように「新王朝理念」とは整合しない措置が見られることは、このような規定性・拘束性の所産と考えられる。
 桓武の「政治的理念」のみに注目し、このような規定性・拘束性を無視することは、天皇に対する歴史的評価の手法としては問題があるとせざるを得ない。
 第二に、早川の想定それ自体が本稿の検討結果と整合しない。
 まず、(1)「中国的な、律令法のたてまえとする絶対的な権威と権力をあわせもつ皇帝」の追求という想定自体が成立し難い。
 早川の想定する「皇帝」とは、畿内政権の政治的首長から脱却した天皇の姿である。
 すなわち、早川説では桓武朝において律令法導入時に存在した唐とは異なる日本の独自の特質が消滅したとされているのであり、だからこそそれは「中国的」とも称される。畿内政権論自体が成立し難いのは既に指摘のある通りだが(伊藤循「国家形成史研究の軌跡ー日本古代国家論の現状と課題ー」〔『歴史評論』五四六、一九九五年〕、同「畿内政権論争の軌跡とそのゆくえ」〔『歴史評論』六九三、二〇〇八年〕など参照)、ここでは早川の、このような桓武朝についての見解が問題となる。
 結論から言えば、それは成立しないと言わざるを得ない。
 後述のように、第Ⅴ期(桓武朝)における「基本的政策課題」は「行政の『相対的独立化』」であったと考えられるが、「人格的身分的結合関係」・良人共同体の意義を、政策的にも国家の基本的体制の問題としても否定するものではなかった(本項「5.小結」の「『行政の『相対的独立化』』と(α)『人格的身分的結合関係』」及び第Ⅷ章参照)。
 唐とは異なる日本独自の特質である「人格的身分的結合関係」・良人共同体に規定された政策を追求し、国家体制を維持する天皇制の在り方は、いかなる意味でも「中国的」ではなく、したがって(早川が想定するような意味での)「絶対的な権威と権力をあわせもつ」天皇とも言えない。
 また、これと関連し(2)桓武と大宝・養老律令との関係の理解に問題を指摘できる。
 早川によれば、桓武は大宝・養老律令が理念とした天皇制の在り方を具現化しようとしたということにならざるを得ない。
 しかし、桓武朝(第Ⅴ期)の「基本的政策課題」である「行政の『相対的独立化』」はそのような性格のものとは認められない。この課題は、新たな天皇制の模索とも関わるものと見られるが、(最終的な歴史的評価は措くとしても)大宝・養老律令施行による成果を踏まえつつも、それによる地方行政機構の維持・運営の行き詰まりを踏まえ、新たな課題に対応するものと見られるのであって(本稿第Ⅷ章)、大宝・養老律令の理念の具現化とは評価できない。
 法典編纂の問題においても、桓武が命じたのは形式上は養老律令の「付属法」に過ぎない格・式の編纂であり、それは、既述の桓武朝の課題と対応するものと考えるべきであろう。
 早川によれば、大宝律令は天皇と貴族との「妥協の産物」(一六〇頁)に過ぎないとされており、養老律令もその「限界」を大きく払拭できたと想定されているわけではない。仮に早川のこのような大宝・養老律令の想定に従うとしても、桓武はその「限界」を克服した新たな律令の編纂を命じたわけではなく、「付属法」の編纂に大宝・養老律令の理念の具現化を見出すのは無理であろう。
 以上のように、早川説自体は成立し難いと言わざるを得ない。
 ただし、筆者は桓武の「政治的理念」の追究の意義を否定しているわけではない。
 後述のように光仁即位の政治的意義は、「人格的身分的結合関係」における「政治的可変性」の可能性を考える上でも重要である。光仁自身が自らの即位の意義をどのように認識していたかは、この問題を考える上で有力な検討素材の一つであり、その後を襲った桓武においても同様である。
 既述のような規定性・拘束性の中で桓武がどのような「政治的理念」を抱いたかは地方行政機構の維持・運営の歴史的展開を考える上でも重要と言って良く、また、その検討は早川が問題とした天皇制における「権威と権力」の変質の把握につながるものと考える。
*15)三月丙申詔(以下、「三月丙申詔」)。
*16)延暦一七年(七九八)四月甲寅条。なお、ここで「国造の兵衛」が停止された理由については、必ずしも審らかにはできない。
 まず、確認すべきは、「延暦一七年制」の目的である「譜第」郡司の再生産の阻止について、この措置は一定度も寄与はするが、その意義は限定的であることである。
 当然ながら、「国造」は「譜第」の系譜に属する。ここでの「国造」は当然、所謂「新国造」であるが系譜としては「旧国造」に連なっており、この「旧国造」は評制施行時に基本的に評造に任用されたと見られるので(大化元年〔六四五〕八月庚子条。拙稿G参照)、「新国造」は「難波朝庭以還譜第重大」「立郡以来譜第重大」に該当するからである。
 また、兵衛は郡司子弟から選抜されており郡司に任用される場合がある(軍防令37兵衛考満条・同38兵衛条・『延喜式』式部上149諸衛任官条など)。
 とすれば、「譜第」でもある「国造の兵衛」を停止することは、「譜第」郡司の再生産の阻止に寄与する。
 しかし、「国造」は「譜第」の一部に過ぎない。「譜第」は「大化前代」の在地首長層のみならず、七世紀後半以降に台頭した新興首長層なども含むからである。
 とすれば、「譜第」郡司の再生産の阻止という観点からは、「国造の兵衛」の停止は限定的な意義しか持たない。兵衛制からのかかる再生産を全面的に阻止しようと思えば、本来、「国造の兵衛」だけでなく、「譜第」の系譜に属する兵衛全てを停止しなければならず、抜本的には兵衛の郡司子弟からの選抜か、その郡司への任用を停止しなければならない。
 にもかかわらず、なぜ、「国造の兵衛」だけが停止の対象となるのかは不明とせざるを得ない。
 差し当たり、嫡々相継制によって廃止されていたと見られる、選叙令13郡司条の本註「それ大領・少領は才用同じならば、まず国造を取れ」との関連も想定されるが、「延暦一七年制」は直ちに本註部の規定の復活を示すものではなく、兵衛の停止という形ではなく、この本註規定の廃止を明示すればよい。
 以上から、この措置の意義については現在、不明とせざるを得ない。
*17)「延暦一九年(八〇〇)一二月四日太政官符」(『類聚三代格』巻七)。
*18)延暦一八年(七九九)五月庚午条。
*19)延暦一七年四月甲寅条(註(16)前掲)、延暦一八年五月庚午条(註(18)前掲)、「延暦一九年一二月四日太政官符」(註(17)前掲)、弘仁二年(八一一)二月己卯条・「同年同月二〇日詔」(『類聚三代格』巻七)。
*20)後世の儀式書に見える郡領の任用手続きの詳細な儀式次第については、森公章「試郡司・読奏・任郡司ノートー儀式書に見える郡司の任用方法ー」(『古代郡司制度の研究』吉川弘文館、二〇〇〇年。初出は一九九七年)・拙稿Cなど参照。
*21)以上、森公章「律令国家における郡司任用方法とその変遷」(註(20)書。初出は一九九六年)一四三頁。
*22)毛利憲一「郡領任用政策の歴史的展開」(『立命館文学』五八〇、二〇〇三年)一一頁。以下、毛利の見解は基本的に同論文による。
*23)毛利の(ア)・(イ)に関する説明は次の通りである。
 (ア)については、国司権限・郡領「私門」の抑制という課題に対し、桓武が〈新王朝〉観念を有していたため、「譜第之選」停止という従来の「王権との歴史的奉仕関係」を否定する措置が取られ、「改新」以来の一大「改革」と位置付けられたとする。
 (イ)についても、「芸業」は地方統治の現実との乖離をもたらす基準であり、そのような統治を担う実務能力ではないが、桓武の〈新王朝〉観念・「中国皇帝的徳治理念」によって設定されたとする(以上、一三頁)。
 この説明は成立し難いといわざるを得ない。
 まず(ア)について。
 前提として概念の問題について述べておく。毛利の「王権との歴史的奉仕関係」とは「労」に端的に示される、天皇への在地首長層の「祖」以来の奉仕(及びそれに対する「君恩」)の関係である。筆者はこの関係は「人格的身分的結合関係」の概念で把握すべきと考える(後述)ので、以下、この概念で統一する。
 また、以下の行論は後文及び本項「5.小結」の「『行政の『相対的独立化』』と(α)『人格的身分的結合関係』」・第Ⅷ章での分析を前提とする。
 さて、「譜第之選」停止は「人格的身分的結合関係」自体の否定ではない。否定されたのは「郡務」の直接の前提という位置付けに過ぎず、それ自体の意義が否定されたわけではないのである。
 そもそも「譜第」の在地首長層が、「立郡」以来の奉仕を根拠として郡領に任用されることも必ずしも否定されたわけではなかった。
 まず、「延暦一七年制」は「譜第」の在地首長層を郡領任用から排除するものではない。同制が否定したのは、郡領が「譜第」という特定系譜によって継承されていく(「相襲う」)ことー言い換えれば、郡領に任用される系譜が原則として特定・限定されていることーであって、「譜第」の任用自体が否定されているわけではない。
 一方、郡領任用手続きにおいて系譜(「祖」以来の奉仕・「労」)もチェックされていたと考えられる。「芸業」との関係に問題が残るものの、孝徳朝以来の奉仕を根拠として「譜第」の在地首長層が郡領に任用される余地も存在していたと考えられる。
 それ故、「延暦一七年制」は「天武系」を主とする従来の天皇に対する在地首長層の奉仕を否定するものではない。
 したがって、毛利の理解では、同制における「譜第之選」の停止が直ちに「改新」以来の一大「改革」とされた必然性を説明することはできない。
 次に(イ)について。
 これについては、桓武が〈新王朝〉・「中国皇帝的徳治理念」を有すると、なぜ郡領の任用基準が「芸業」とされるのかが説明されていない。
 あえて推測を巡らせば、学芸能力たる「芸業」においては中国典籍の素養が重要な位置を占めたと見られ、それに秀でた者を従来、在地首長層を任用してきた郡領に任用することにより、桓武が「中国的」国家を造り上げようとしたとの可能性が想定される。
 しかし、この想定は成立し難いであろう。
 第一に、任用に当たって「芸業」のような学芸能力が基準とされなかったのは、郡領だけではない。任用基準が具体化されないのは、日本律令制国家の官職任用一般の特徴であり(拙稿C参照)、本来、このような意味での「中国的」国家を造るのであれば全ての官職の任用基準制度に発動する方が自然であろう。
 第二に、郡領任用における措置を一つの手段として「中国的」国家を目指すのであれば、なぜ、在地首長層の任用が維持され、唐の県官のような中央派遣官にされなかったかが問題となる。もちろん、この批判に対しては、本来、このような方向性を目指したが、在地首長層の支配を否定できなかったとの反論が予想されるが、このような方向性の模索が実証されているわけではない。
 毛利は(ア)・(イ)を桓武の〈新王朝〉観念によって説明するが、註(14)で述べたように自己運動できない君主の「政治的理念」によって、措置の意義に関わる(ア)・(イ)を説明するのは頗る限界があると言わざるを得ない。君主の「政治的理念」の影響は否定しないが、既述のようにそれは支配層の全体的意思に規定・拘束されており、その意思は支配層の歴史的特質に規定されると考えられる。したがって、基本的には(ア)・(イ)もこのような特質との関連で説明されるべきであろう。
 そして、このような支配層・国家機構の歴史的特質を規定するのが「人格的身分的結合関係」であることは既述の通りである。したがって、この概念を欠いては、「延暦一七年制」の意義を把握することもできないと言える。「王権との歴史的奉仕関係」という概念は放棄し、「人格的身分的結合関係」を使用すべきである。
 他に「延暦一七年制」の意義を把握する上でも一つの前提となる大宝令の郡領任用基準制度の毛利の理解(「郡領の任用と『譜第』―大宝令制の構造と特質ー」〔『続日本紀研究』三三八、二〇〇二年〕)については、拙稿C参照のこと。
*24)「延暦一六年(七九七)一一月二七日太政官符」(『類聚三代格』巻七)。
*25)「延暦一七年(七九八)二月一五日太政官符」(『類聚三代格』巻七)
*26)「延暦一七年(七九八)三月二九日太政官符」(『類聚三代格』巻七)・同年一〇月丁亥条。
*27)「延暦一七年(七九八)三月二九日太政官符」・同年一〇月丁亥条(註(26)前掲)。
*28)「延暦一九年(八〇〇)一二月四日太政官符」(註(17)前掲)。
*29)「延暦一九年(八〇〇)一二月四日太政官符」(註(17)前掲)。
*30)また、「人格的身分的結合関係」のこのような位置は、唐の「才用」規定を継受せず、任用の直接の前提が位階の保持になる一般官人の場合も同様であり、同じく孝徳朝に成立したと認識されていた「公務」・国家機構一般の在り方の「改革」でもあった。
*31)毛利前掲論文。
*32)「延暦一九年(八〇〇)一二月四日太政官符」(註(17)前掲)。なお、唐選挙令は「才用」(「才能」)を審査するための基準(その具体的内容)を明確化している(大隅清陽「律令官人制と君臣関係ー王権の論理・官人の論理ー」〔『律令官制と礼秩序の研究』吉川弘文館、二〇一一年。初出は一九九六年〕など参照)。しかし、言うまでもなくそれは「才用」の語それ自体から導き出されるものではなく、唐の「貴族社会の価値観」(大隅論文、一四一頁)を媒介としたものである。
*33)弘仁二年(八一一)二月己卯条・「同年二月二〇日詔」(註(19)前掲)。
*34)このような認識においては、国内・郡内の情勢は必ずしも任用に当たって重要な要件とはならず、(bー2)のように、「本国」を経ず、式部省が独自に「簡試」する場合が認められると考えられる。
*35)『延暦交替式』の巻末奏上文には「庶(こいねが)わくは、諸国をして遵奉し以て失わ(せしめ)ず」とあり、交替政における国司の失錯を正すことが編纂目的の一つであったことが分かる。
*36)表1-№23。
*37)表1-№25。
*38)なお、国司制で触れた(ⅰ)~(ⅲ)の事例には郡司も関わると見られる。例えば、(ⅰ)の対応措置は「内外の官人」を対象とし、(ⅱ)は「国宰・郡司」の「怠慢」を問題とし、(ⅲ)は「国司以下」の「犯」が問題とされる。しかし、基本的に問題とされているのは国司と見るべきであろう。
*39)四月壬寅条。
*40)梅村喬「公廨稲制と補填法の展開ー専当人補填から共填へー」(『日本古代財制組織の研究』吉川弘文館、一九八九年)一〇二頁など参照。
*41)なお、「訪察」の語は第Ⅴ期の事例では表1-№26の観察使の評定基準(「大同四年(八〇九)九月二七日太政官符」〔『類聚三代格』巻七〕)に見える。
*42)観察使については福井前掲書、大塚徳郎「平城朝の政治」(『平安初期政治史研究』吉川弘文館、一九六九年。初出は一九六二年)、笠井純一「観察使に関する一考察」(『続日本紀研究』一九四・一九五、一九七七・七八年)、春名宏昭『平城天皇』(吉川弘文館、二〇〇九年)など参照。
*43)延暦五年(七八六)四月庚午条(前掲)・「同年同月一九日太政官奏」(『類聚三代格』巻七)。
*44)「大同四年(八〇九)九月二七日太政官符」(註(41)前掲)。
*45)なお、昇進については、五位以上の対象者については、事を量った上での「進階」、六位以下の対象者については、「不次に擢でて」五位を賜与するとされる。
*46)詳しくは記さないが、改訂の重要なポイントは例えば冒頭で「撫育に方ありて戸口増益す」「農桑を勧課し倉庫を積実す」について、増減の「分数」などが定められているように、進階・擢授及び解任の基準を精緻化することにあると見られる。
*47)福井前掲書、一三〇頁以下参照。
*48)なお、拙稿Eでは令制の「試練」の筆記試験について、(1)在地首長層の郡領としての適性評価機能を疑問視し、(2)その意義を在地首長層もディスポティシズムの原理に編成されていることを象徴的に示す点に求めた。今のところ、令制の筆記試験についてはこの見解に修正の必要は感じていない。
 しかし、毛利前掲論文によれば「延暦一七年制」によってこのような「試練」・筆記試験の性格に変化が生じていた可能性を指摘できる。
 すなわち、毛利は同制により「式部省で(「芸業」的)「才用」を審査する階梯はこの時初めて組み込まれた」(一二頁)とする。後述のように、毛利は在地首長層が郡領任用に当たって「甲」(甲・乙・丙などの筆記試験の成績)を競ったと認識しているので、同制においては、筆記試験によって郡領としての適性が評価されたと想定していると考えられる。
 「試練」が法制上、「才用」を審査する場と位置付けられている以上、「芸業」が「試練」・筆記試験で審査される形になるのは当然と言える。
 拙稿Eとの関わりで問題になるのは、それが実質的に在地首長層の適性評価機能を有しているかという点である。
 毛利の指摘の中で、このような評価機能の存在の根拠となるのは前述の在地首長層が筆記試験の成績を競ったとの理解である。これは、弘仁三年(八一二)六月壬子条に、郡領任用につき在地首長層が「第を争い甲を競う」とあるとの認識に基づく。
 しかし、この認識は成立しない。
 該当部分は和学講談所(塙保己一)板行の版本(「塙板本」)を底本とした訳注日本史料本には確かに「第を争い甲を競う」とある。しかし、同本の校異註により三条西家旧蔵本(「三本」)は「第を争い、相競う」とあり、「甲」の字は存在しないことが知られる(六一四頁)。一方、該当部を収載した「同年八月五日太政官符」(『類聚三代格』巻七)には「三本」同様「第を争い、相競う」とあり、新訂増補国史大系本の校異註による限り、写本間の異同は確認されない。『後紀』においても「三本」が「塙板本」の祖本と見られることからも(齋藤融「残存巻について」〔訳注日本史料本〕参照)、現在、把握できる該当部の文字の異同に関する知見の限りでは「第を争い、相競う」が本来の記述であった可能性が高い。
 とすれば、現在のところ、在地首長層が「甲」(筆記試験の成績)を競ったという理解は成立しない。一方、「第を争い」についても該当部が前年の「譜第之選」復活を受けた記述である以上、「譜第」の意と取るべきであり、「譜第の優劣」(「第Ⅴ章」註(2)前掲天平勝宝元年二月壬戌条)を競ったと理解すべきであろう(森註(21)論文)。
 したがって、毛利の指摘の限りではこのような評価機能については確認できないことになる。
 しかし、以下の根拠によってこのような評価機能が存在した可能性を指摘できる。
 すなわち、大宰府が郡領の「才能を歴試」した結果、「未だその人を得ず」という状況に陥ったことが確認できることである(註(17)前掲「延暦一九年〔八〇〇〕一二月四日太政官符」)。
 この史料は前述の「条目」の存在を示すものであるが、ここでの「歴試」は毛利が指摘するように西海道における「試練」であり、筆記試験によるものと考えられる(毛利論文一二頁。ただし「未だその人を得ず」の部分については言及がない)。その結果、「未だその人を得ず」(郡領としての適任者を得られない)状況になったとすれば、筆記試験が適性評価機能を備えていたことになる。
 すなわち、結論的には毛利の想定は支持し得る可能性がある。
 とすれば、(1)はもちろんのこと、ディスポティシズムの原理も単に「象徴」的に示すに留まらないので、(2)も変化することになる。また、これは、「試練」の基本的意義が「意識の内部の支配」の基本的手段に留まらなくなったことをも示している。
 今後、なお検討したいとは思うが、差し当たり第Ⅴ期に「試練」の性格・意義に変化があった可能性があることを指摘しておきたい。
*49)「一一月二七日太政官符」(註(24)前掲)。
*50)「二月二六日太政官符」(『類聚三代格』巻七)。
*51)早川庄八「選叙令・選任令と郡領の『試練』」(「第Ⅰ章」註(7)書。初出は一九八四年)。なお、拙稿Eも参照。
*52)「延暦一六年(七九七)一一月二七日太政官符」(註(24)前掲)。
*53)大町健「「畿内郡領と式部省『試練』」(『日本歴史』四六六、一九八七年)・拙稿E参照。
*54)延暦一八年(七九九)四月壬寅条(註(39)前掲)。
*55)天平宝字元年(七五七)正月甲寅条(「第Ⅴ章」註(9)前掲)。
*56)郡司制においては「意識の内部の支配」の強化措置として積極的意義を有するのは昇進に過ぎないが、対応措置が見られるのは確かである。
*57)福井前掲書、二六四頁。註(42)前掲論文・文献参照。
*58)弘仁元年(八一〇)六月丙申条。
*59)福井前掲書、一三三頁。
*60)「弘仁八年正月二四日太政官符」「天長二年閏七月二六日太政官符」(いずれも、『類聚三代格』巻七)。
*61)米田「第Ⅴ章」註(35)書など参照。
*62)なお「出挙公廨制」については、「延暦五年(七八六)六月一日格」(「延暦二二年二月二〇日太政官符」〔『延暦交替式』〕所引)における前後司間の、「延暦一二年(七九二)二月一五日格」(「貞観八年三月七日太政官符」〔『類聚三代格』巻六〕)における和泉国などの守と掾の、「公廨」の配分率を規定する措置などが見える。
*63)二月壬申是日条。なお、職分田は史料上では「職田」。
*64)正月甲辰条。なお、職分田は史料上は「公廨田」。
*65)同月乙酉条。
*66)八月丁亥条(なお、職分田は史料上は「公廨田」)・九月丁酉条。
*67)「大同三年(八〇八)二月五日太政官符」(『三代格』巻六)。なお、同官符では同年に、「国司俸」の停止に伴い、事力とともに「公廨」((D)-(b))が復活したことになっている。したがって、前年の八〇〇年に職分田・「公廨」とともに事力の復活(及び「国司俸」の停止)が宣言され、八〇一年に至って実施されたということかもしれない。
*68)二月乙丑条。
*69)薗田「第Ⅲ章」註(31)論文七九~八〇頁、山本「第Ⅲ章」註(28)論文一二頁などに言及はあるが、十分に検討されているとは言えない。
*70)「二月五日太政官符」。なお、事力の支給は「天長二年(八二五)閏七月二二日太政官符」により復活(ともに『類聚三代格』巻六)。
*71)そもそも、本稿の「規律」の概念は古代における「罪」「犯」などの概念に必ずしも即しているわけではなく、その認定に限界があることは後述する通りである。
*72)№107の「免官」を(ウ)「解任」と見れば五例、名例律19の発動と見れば六例となる。
*73)吉田A論文。
*74)長山「第Ⅱ章」註(29)論文参照(長山の指摘については同註で関説)。
*75)「一般的表現」の一年あたりの発動頻度は〇.八六~〇.八九になる。表2-Bから第Ⅴ期が最高値であることは明らかと考えられるので、第Ⅰ~Ⅳ期との比較は省略する。
*76)№119の規律発動を『貞観』に従えば一八例、『後紀』に従えば一九例となる。
*77)違勅罪同様、№119の規律発動を『後紀』に従えば一二例、『貞観』に従えば一三例となる。
*78)福井前掲書など。
*79)註(72)で触れた№107の「免官」を、名例律19の発動と見れば一五例、(ウ)「解任」の発動と見れば一六例になる。
*80)吉川真司「律令官僚制の基本構造」(「第Ⅱ章」註(41)書。一九八九年)。ただし、禄を位階と同様の「基本的紐帯」と看做すことはできないことについては、拙稿B参照。
*81)前述の推定のようにそれが財政問題の一環であるとすれば、財政さらにそれを基盤とした職務執行が「人格的身分的結合関係」の秩序から「独立化」していく傾向を示す。
*82)(あ)七八一年(天応元)の詔における「貶降」「顕官の賜与」の宣言・(い)七八六年(延暦五)の「条例」など。
*83)註(19)前掲。
*84)ただし、良人共同体における「人格的身分的結合関係」の「基本的紐帯」である姓の秩序については、『新撰姓氏録』が編纂されたが未完に終わった。なお、長谷部将司「氏族秩序としての『勅撰』漢詩集」(『国史学』一九一、二〇〇七年)、仁藤註(14)論文などに検討がある。
*85)弘仁期以降、本格的に導入される「唐風文化」については君臣関係の維持・強化の側面があり、このような弱点・課題の克服であった可能性がある。「唐風文化」の概況については差し当たり、笹山晴生「唐風文化と国風文化」(『岩波講座日本通史 五』岩波書店、一九九五年)、「唐風文化」と君臣関係の関連などについては長谷部註(84)論文など参照。. È¿‘代東アジア法制関連日本語論文データベース(仮) 西 英昭 ・ 国吉 亮太.  次に(2)について。
 まず、国司制における措置については、ほとんど有効性はなかったものと考えられる。
 (a)「中央派遣使」の「訪察」の内、№23の巡察使は、宣言は行われたものの実際の派遣は確認できない。
 また、№26の観察使は、(b)-(ア)七八六年(延暦五)の「条例」に基づいて評定を行うものとされている。しかし、この「条例」は観察使設置以後、問題が多く指摘され、(イ)八〇九年(大同四)の観察使の評定基準が設けられていることからも、十分な評定が行い得たとは思われない。実際、観察使に任じられた官人の活動は「地方官監察よりはむしろ地方政治を中心としたいろいろな奏上」*57)の方が目立つとされる。また、(イ)八〇九年の評定基準についても、その成立の翌年に観察使が廃止されてしまう*58)ので、この基準による評定も実質的には行い得なかった。
 (b)評定基準の制定の内、(ア)七八六年(延暦五)の「条例」に問題が多く指摘されたことは前述したが、既に先行研究で述べられているように、そもそもそれ以前はほとんど機能していなかったと考えられる*59)。観察使設置以前は、この「条例」を用いて評定を行う官職さえ設置されていないからである。(イ)八〇九年の評定基準についても、既述の翌年の観察使の廃止を考えれば、実質的にはほとんど機能しなかったと考えられる。
 唯一、実質的な活動が確認できるのは(a)「中央派遣使」の「訪察」における№25の問民苦使のみである。しかし、この場合も問民苦使の報告によれば「違犯する者多し」とされ、規律が発動されているので、その「黜陟」によって(上層支配層から見た)国内行政の諸問題につき、どこまで有効に対処できたかは疑問とせざるを得ない。
 次に郡司制における、(B)昇進に関する措置について。
 (a)評定基準に有効性が認められないのは国司制と同様である。
 次に、(b)内考への転換措置については、その後、八一七年(弘仁八)・八二五年(天長二)に、考を得た後、詐病を称して仕えない者、あるいは同じく詐病を称して解却後、他選に入ることを求める者への対応が問題となっている*60)。その意味では、郡司制の「意識の内部の支配」の問題を完全に克服し得たわけではない。
 しかし、郡司制自体の変化もあり*61)、本稿の考察対象からも外れるので、ここでは踏み込んだ考察は避けることにする。
 ただし、少なくとも、在地首長層の郡司への任用辞退という状況は克服されたことが知られる。その意味では郡司制における「意識の内部の支配」の破綻という事態は回避されたのであり、その点で一定の有効性は認めるべきであろう。
 したがって、郡司制における(b)内考への転換措置については、一定の有効性を認め得ると考えられる。. この内、(a)石川年足は、前述のように七三九年(天平一一)に褒賞の対象となった人物であるが(表1ー№13)、後に「別式」二〇巻を編纂する*38)。(b)平群広成は刑部大輔*39)、(c)大伴三中は刑部少輔兼大判事*40)の経験を有している。(d)巨勢嶋村も、後に刑部少輔に任じられる*41)。また、(e)大養徳小東人は、養老律令の編纂に参加し、刪定律令の編纂に加わる、後の大和長岡*42)である。
 すなわち、一定以上の法的素養のある人材が多く起用されていることが分かる。
 にも関わらず、前述のような疑問が呈せられていることは、問題が№15の巡察使に留まるものではないこと、「中央派遣使」、そして官人一般の問題であったことを示している。
 次に、表2-A・Bを検討する。
 まず、指摘すべきは第Ⅰ期の「律により科断」(№7)のような表現は姿を消すことである。必然的に、その発動を確実に示す事例は〇例となる。すなわち、第Ⅱ期の特徴として. 5.小結ー第Ⅴ期の地方行政機構の維持・運営の特徴ー

 以上を踏まえて、第Ⅴ期の地方行政機構の維持・運営における(Ⅰ)地方行政機構の維持・運営における、支配層の「基本的政策課題」と、(Ⅱ)地方行政機構の維持・運営の在り方を、それぞれ把握する。

・(Ⅰ)地方行政機構の維持・運営における、支配層の「基本的政策課題」

 まず、(Ⅰ)地方行政機構の維持・運営における、支配層の「基本的政策課題」について。
 この点については「行政の『相対的独立化』」にあると見てよいであろう。
 何よりも、第Ⅰ~Ⅲ期の「基本的政策課題」であった(α)「人格的身分的結合関係」において、郡司制に関して見出すことができる。
 また、良人共同体・「人格的身分的結合関係」の秩序維持の政策的位置の低下は、第Ⅴ期の全体的傾向と見ることができるが、「行政の『相対的独立化』」と対応関係にあると見られる。
 さらに、第Ⅴ期には「行政の『相対的独立化』」の前提ともなる(α)「人格的身分的結合関係」の職務への規定性の喪失が確認できる。
 (β)「意識の内部の支配」において、このような喪失が見えることは既述の通りである。
 (γ)「単一的支配」においても、同様の可能性は指摘できる。. を指摘できる。

・(イ)「欠失補填」

 表1、表2-A・Bでは、(イ)「欠失補填」の発動事例が見えないが*45)、これについては前述の通りである。
 むしろ、第Ⅲ期には(イ)「欠失補填」がかなり積極的に発動されたものと見られる。
 この点を端的に示すのは、表1の№20の巡察使である。
 この巡察使は「交替の訴を判断」することを基本任務の一つとしているが、このような「訴」は、当然ながら(イ)「欠失補填」の一定度以上の発動を背景にしたものであろう。
 発動の前提となる制度的整備も、主に七五〇年代に見られ、支配層による(イ)「欠失補填」の重視を示している*46)。. 2.「意識の内部の支配」

(1)第Ⅳ期における「意識の内部の支配」の動揺

 まず、第Ⅲ期における「意識の内部の支配」の動揺の激化が、第Ⅳ期に入っていかに展開したかを確認する。

・国司制

 表1によれば、第Ⅳ期の「中央派遣使」の活動において、国司(郡司も)の経済的利益の追求を糾弾した事例は見られない。
 しかし、この時期の「中央派遣使」は二例、確認できるに過ぎない。しかも、一例は「検税使」であり(№22)、国政全般の監察を目的としたものは一例である(№21)。第Ⅳ期が一一年間に過ぎないことを考慮しても、第Ⅲ期以前に比べれば、その派遣頻度は少ないと言わざるを得ない。この問題は、「中央派遣使」の基本的特質と関わるが、後述する。
 さしあたり、ここでは表1に国郡司の経済的利益の追求を糾弾した事例が見られないからと言って、かかる追求、それによる「意識の内部の支配」の動揺の激化が沈静化したと考えることはできないことを確認したい。
 表2-A・Bに収載した事例にかかる追求の問題視が見えること*3)を考慮すれば、問題自体は継続していると考えるべきであろう。

・郡司制

 郡司制については、引き続き神火事件が問題とされ、(ア)七七三年(宝亀四)には、正倉の火災が、神火ではなく、郡司及び郡司に任用されない「譜第」を主体とする在地首長層による放火であること*4)、(イ)七七九年(宝亀一〇)にはそれが「郡任を奪う」ためのものであること*5)、が明示されるようになった。
 郡司・在地首長層の「意識の内部の支配」の動揺が依然、深刻であることが分かる。

(2)国司制における対応措置

 国司制における対応措置は、表2-Aー№66の、雑米未進に対し、国司主典以上の考を落とす措置が管見に入った唯一の動きである。

(3)郡司制における対応措置

 郡司制の「意識の内部の支配」自体の措置としては、(ⅰ)表2-Aー№66の雑米の未進に対し、郡司主帳以上の考を落とす措置(国司と同一事例)、(ⅱ)七七二年(宝亀三)の、第Ⅲ期に制定された嫡子出身制の廃止措置*6)が確認される。この内、(ⅱ)の嫡子出身制には前述の意義があり、その廃止は「意識の内部の支配」を弱体化させる側面は否定し難いと考えられる。
 すなわち、「意識の内部の支配」の強化措置と見られるのは、(ⅰ)のみである*7)。
 
(4)まとめー「意識の内部の支配」の政策的位置と措置の有効性ー. Disclaimer : The opinions expressed here by the Bloggers and those providing comments are theirs’ alone, and do not reflect the opinions of Crimson Interactive or any employee thereof.

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 以上の諸研究によって、個別的事実についての認識は深化されたと言える。
 しかしながら、早川が本来、問題にしたこの時期における天皇制の「権威と権力」の在り方については提起がなく、問題が個別的論点に矮小化している傾向を指摘できる。
 例えば、(1)は早川の先の評価を継承するが、「中国的皇帝」の内実については、桓武が唐の太宗を君主の理想としたとの指摘に留まる。
 (2)も皇統意識の専論と言ってよい。
 (3)は皇位継承などの在り方について独自の知見を示すが、継承される「権威と権力」の在り方について正面から論じているわけではない。
 (4)の昊天祭祀は神祇令に継受されず、河内が指摘するように「国家祭祀が支配の思想的基盤に位置するためにその改変がきわめて困難であった」(三〇頁)ことからすれば、桓武朝に始まるその挙行は天皇の権威の変質と関わる問題と見られる。しかし河内論文においては、論点が「皇位の安定化と直系継承」という天皇における権力維持(広い意味での権力闘争)に収斂されている。
 もとより、本稿も主題の関係もあって、この時期の天皇制とその「権威と権力」の在り方について独自の知見を提示することは不可能である。
 そこで、ここでは本稿の検討結果をも踏まえて、早川説の基本的問題を指摘しておきたい。早川の提起を受け、上記の問題に迫る上での前提となると考えられるからである。
 第一に、歴史的評価が桓武個人の「政治的理念」の追求を以て下されており、支配層の全体的意思・歴史的特質による規定性・拘束性が無視されていることである。
 その原因は、桓武の歴史的評価の前提となる君主制の基本的認識が踏まえられていないことと考えられる。
 そもそも、君主は支配層を離れて自己運動することができない(石母田「第Ⅰ章」註(1)書、三六三頁)。君主とは支配層が「共同利害」を維持するために擁立した存在なのであり、いかに専制的であってもこの性格から逸脱することはできない。
 しかし、早川説ではこの基本的前提が無視されている。早川の既述の評価は天皇と貴族層との権力的な対抗関係の追究に基づいており、後者の前者に対する屈服の結果、桓武が「絶対的な権威と権力」を追求するに至るとされる。桓武朝における後者の前者に対する規定性・拘束性は、事実上、否定されている。
 しかし、既述の君主制の性格は権力闘争によって消滅する性格のものではなく、桓武が直面した課題も支配層の「共同利害」の維持であったはずである。彼の強大な権力はあくまでこの課題の克服のために存在するのであって、貴族を上層部とする支配層の全体的意思・歴史的特質による規定性・拘束性から逃れることはできない。
 この点は、彼自身の「政治的理念」・思惟もこのような規定性・拘束性の中に存在することをも意味する。
  まず、彼の「政治的理念」自体がこのような規定性・拘束性の中に存在する。
 このような「理念」は彼個人が抱いたものであったとしても、あくまで「共通利害」の維持という課題に対応するためのものであり、支配層の全体的意思・歴史的特質から離れて存在することはあり得ない。
 次に、彼の「政治的理念」を具現化するには政策化による「国家意思」への転化が必要である。したがって、その意義が支配層全体に一定度、共有されねばならない。
 桓武が権力闘争の次元において貴族層を圧倒していたとしても、このような手続きの必要性が否定されるわけではなく、その意味で前記のような規定性・拘束性の中にあるのである(そもそも、このような規定性・拘束性の中にあるからこそ、権力闘争において貴族層を圧倒する必要があるのである)。
 さらに、仮に「政治的理念」において彼個人が自らを中国皇帝に擬したとしても、彼の思惟全体は日本の支配層の歴史的特質に規定されていると見るべきであろう。
 実際、その天命思想は、「革命」を天武系から天智系への交替に限定していたとされており(早川B論文)、これは天孫神話をイデオロギー的根拠とする、日本独自の天皇制の在り方(したがって、天皇に神的・超越的権威を与える良人共同体の在り方)に規定されていたためと考えられる。彼の「中国皇帝」志向はー仮に存在したとしてもー基本的にはその主観的自己認識と見るべきであろう。
 早川論文や(1)佐藤論文によって天命思想の影響が指摘されているにもかかわらず、(3)仁藤論文が指摘するように「新王朝理念」とは整合しない措置が見られることは、このような規定性・拘束性の所産と考えられる。
 桓武の「政治的理念」のみに注目し、このような規定性・拘束性を無視することは、天皇に対する歴史的評価の手法としては問題があるとせざるを得ない。
 第二に、早川の想定それ自体が本稿の検討結果と整合しない。
 まず、(1)「中国的な、律令法のたてまえとする絶対的な権威と権力をあわせもつ皇帝」の追求という想定自体が成立し難い。
 早川の想定する「皇帝」とは、畿内政権の政治的首長から脱却した天皇の姿である。
 すなわち、早川説では桓武朝において律令法導入時に存在した唐とは異なる日本の独自の特質が消滅したとされているのであり、だからこそそれは「中国的」とも称される。畿内政権論自体が成立し難いのは既に指摘のある通りだが(伊藤循「国家形成史研究の軌跡ー日本古代国家論の現状と課題ー」〔『歴史評論』五四六、一九九五年〕、同「畿内政権論争の軌跡とそのゆくえ」〔『歴史評論』六九三、二〇〇八年〕など参照)、ここでは早川の、このような桓武朝についての見解が問題となる。
 結論から言えば、それは成立しないと言わざるを得ない。
 後述のように、第Ⅴ期(桓武朝)における「基本的政策課題」は「行政の『相対的独立化』」であったと考えられるが、「人格的身分的結合関係」・良人共同体の意義を、政策的にも国家の基本的体制の問題としても否定するものではなかった(本項「5.小結」の「『行政の『相対的独立化』』と(α)『人格的身分的結合関係』」及び第Ⅷ章参照)。
 唐とは異なる日本独自の特質である「人格的身分的結合関係」・良人共同体に規定された政策を追求し、国家体制を維持する天皇制の在り方は、いかなる意味でも「中国的」ではなく、したがって(早川が想定するような意味での)「絶対的な権威と権力をあわせもつ」天皇とも言えない。
 また、これと関連し(2)桓武と大宝・養老律令との関係の理解に問題を指摘できる。
 早川によれば、桓武は大宝・養老律令が理念とした天皇制の在り方を具現化しようとしたということにならざるを得ない。
 しかし、桓武朝(第Ⅴ期)の「基本的政策課題」である「行政の『相対的独立化』」はそのような性格のものとは認められない。この課題は、新たな天皇制の模索とも関わるものと見られるが、(最終的な歴史的評価は措くとしても)大宝・養老律令施行による成果を踏まえつつも、それによる地方行政機構の維持・運営の行き詰まりを踏まえ、新たな課題に対応するものと見られるのであって(本稿第Ⅷ章)、大宝・養老律令の理念の具現化とは評価できない。
 法典編纂の問題においても、桓武が命じたのは形式上は養老律令の「付属法」に過ぎない格・式の編纂であり、それは、既述の桓武朝の課題と対応するものと考えるべきであろう。
 早川によれば、大宝律令は天皇と貴族との「妥協の産物」(一六〇頁)に過ぎないとされており、養老律令もその「限界」を大きく払拭できたと想定されているわけではない。仮に早川のこのような大宝・養老律令の想定に従うとしても、桓武はその「限界」を克服した新たな律令の編纂を命じたわけではなく、「付属法」の編纂に大宝・養老律令の理念の具現化を見出すのは無理であろう。
 以上のように、早川説自体は成立し難いと言わざるを得ない。
 ただし、筆者は桓武の「政治的理念」の追究の意義を否定しているわけではない。
 後述のように光仁即位の政治的意義は、「人格的身分的結合関係」における「政治的可変性」の可能性を考える上でも重要である。光仁自身が自らの即位の意義をどのように認識していたかは、この問題を考える上で有力な検討素材の一つであり、その後を襲った桓武においても同様である。
 既述のような規定性・拘束性の中で桓武がどのような「政治的理念」を抱いたかは地方行政機構の維持・運営の歴史的展開を考える上でも重要と言って良く、また、その検討は早川が問題とした天皇制における「権威と権力」の変質の把握につながるものと考える。
*15)三月丙申詔(以下、「三月丙申詔」)。
*16)延暦一七年(七九八)四月甲寅条。なお、ここで「国造の兵衛」が停止された理由については、必ずしも審らかにはできない。
 まず、確認すべきは、「延暦一七年制」の目的である「譜第」郡司の再生産の阻止について、この措置は一定度も寄与はするが、その意義は限定的であることである。
 当然ながら、「国造」は「譜第」の系譜に属する。ここでの「国造」は当然、所謂「新国造」であるが系譜としては「旧国造」に連なっており、この「旧国造」は評制施行時に基本的に評造に任用されたと見られるので(大化元年〔六四五〕八月庚子条。拙稿G参照)、「新国造」は「難波朝庭以還譜第重大」「立郡以来譜第重大」に該当するからである。
 また、兵衛は郡司子弟から選抜されており郡司に任用される場合がある(軍防令37兵衛考満条・同38兵衛条・『延喜式』式部上149諸衛任官条など)。
 とすれば、「譜第」でもある「国造の兵衛」を停止することは、「譜第」郡司の再生産の阻止に寄与する。
 しかし、「国造」は「譜第」の一部に過ぎない。「譜第」は「大化前代」の在地首長層のみならず、七世紀後半以降に台頭した新興首長層なども含むからである。
 とすれば、「譜第」郡司の再生産の阻止という観点からは、「国造の兵衛」の停止は限定的な意義しか持たない。兵衛制からのかかる再生産を全面的に阻止しようと思えば、本来、「国造の兵衛」だけでなく、「譜第」の系譜に属する兵衛全てを停止しなければならず、抜本的には兵衛の郡司子弟からの選抜か、その郡司への任用を停止しなければならない。
 にもかかわらず、なぜ、「国造の兵衛」だけが停止の対象となるのかは不明とせざるを得ない。
 差し当たり、嫡々相継制によって廃止されていたと見られる、選叙令13郡司条の本註「それ大領・少領は才用同じならば、まず国造を取れ」との関連も想定されるが、「延暦一七年制」は直ちに本註部の規定の復活を示すものではなく、兵衛の停止という形ではなく、この本註規定の廃止を明示すればよい。
 以上から、この措置の意義については現在、不明とせざるを得ない。
*17)「延暦一九年(八〇〇)一二月四日太政官符」(『類聚三代格』巻七)。
*18)延暦一八年(七九九)五月庚午条。
*19)延暦一七年四月甲寅条(註(16)前掲)、延暦一八年五月庚午条(註(18)前掲)、「延暦一九年一二月四日太政官符」(註(17)前掲)、弘仁二年(八一一)二月己卯条・「同年同月二〇日詔」(『類聚三代格』巻七)。
*20)後世の儀式書に見える郡領の任用手続きの詳細な儀式次第については、森公章「試郡司・読奏・任郡司ノートー儀式書に見える郡司の任用方法ー」(『古代郡司制度の研究』吉川弘文館、二〇〇〇年。初出は一九九七年)・拙稿Cなど参照。
*21)以上、森公章「律令国家における郡司任用方法とその変遷」(註(20)書。初出は一九九六年)一四三頁。
*22)毛利憲一「郡領任用政策の歴史的展開」(『立命館文学』五八〇、二〇〇三年)一一頁。以下、毛利の見解は基本的に同論文による。
*23)毛利の(ア)・(イ)に関する説明は次の通りである。
 (ア)については、国司権限・郡領「私門」の抑制という課題に対し、桓武が〈新王朝〉観念を有していたため、「譜第之選」停止という従来の「王権との歴史的奉仕関係」を否定する措置が取られ、「改新」以来の一大「改革」と位置付けられたとする。
 (イ)についても、「芸業」は地方統治の現実との乖離をもたらす基準であり、そのような統治を担う実務能力ではないが、桓武の〈新王朝〉観念・「中国皇帝的徳治理念」によって設定されたとする(以上、一三頁)。
 この説明は成立し難いといわざるを得ない。
 まず(ア)について。
 前提として概念の問題について述べておく。毛利の「王権との歴史的奉仕関係」とは「労」に端的に示される、天皇への在地首長層の「祖」以来の奉仕(及びそれに対する「君恩」)の関係である。筆者はこの関係は「人格的身分的結合関係」の概念で把握すべきと考える(後述)ので、以下、この概念で統一する。
 また、以下の行論は後文及び本項「5.小結」の「『行政の『相対的独立化』』と(α)『人格的身分的結合関係』」・第Ⅷ章での分析を前提とする。
 さて、「譜第之選」停止は「人格的身分的結合関係」自体の否定ではない。否定されたのは「郡務」の直接の前提という位置付けに過ぎず、それ自体の意義が否定されたわけではないのである。
 そもそも「譜第」の在地首長層が、「立郡」以来の奉仕を根拠として郡領に任用されることも必ずしも否定されたわけではなかった。
 まず、「延暦一七年制」は「譜第」の在地首長層を郡領任用から排除するものではない。同制が否定したのは、郡領が「譜第」という特定系譜によって継承されていく(「相襲う」)ことー言い換えれば、郡領に任用される系譜が原則として特定・限定されていることーであって、「譜第」の任用自体が否定されているわけではない。
 一方、郡領任用手続きにおいて系譜(「祖」以来の奉仕・「労」)もチェックされていたと考えられる。「芸業」との関係に問題が残るものの、孝徳朝以来の奉仕を根拠として「譜第」の在地首長層が郡領に任用される余地も存在していたと考えられる。
 それ故、「延暦一七年制」は「天武系」を主とする従来の天皇に対する在地首長層の奉仕を否定するものではない。
 したがって、毛利の理解では、同制における「譜第之選」の停止が直ちに「改新」以来の一大「改革」とされた必然性を説明することはできない。
 次に(イ)について。
 これについては、桓武が〈新王朝〉・「中国皇帝的徳治理念」を有すると、なぜ郡領の任用基準が「芸業」とされるのかが説明されていない。
 あえて推測を巡らせば、学芸能力たる「芸業」においては中国典籍の素養が重要な位置を占めたと見られ、それに秀でた者を従来、在地首長層を任用してきた郡領に任用することにより、桓武が「中国的」国家を造り上げようとしたとの可能性が想定される。
 しかし、この想定は成立し難いであろう。
 第一に、任用に当たって「芸業」のような学芸能力が基準とされなかったのは、郡領だけではない。任用基準が具体化されないのは、日本律令制国家の官職任用一般の特徴であり(拙稿C参照)、本来、このような意味での「中国的」国家を造るのであれば全ての官職の任用基準制度に発動する方が自然であろう。
 第二に、郡領任用における措置を一つの手段として「中国的」国家を目指すのであれば、なぜ、在地首長層の任用が維持され、唐の県官のような中央派遣官にされなかったかが問題となる。もちろん、この批判に対しては、本来、このような方向性を目指したが、在地首長層の支配を否定できなかったとの反論が予想されるが、このような方向性の模索が実証されているわけではない。
 毛利は(ア)・(イ)を桓武の〈新王朝〉観念によって説明するが、註(14)で述べたように自己運動できない君主の「政治的理念」によって、措置の意義に関わる(ア)・(イ)を説明するのは頗る限界があると言わざるを得ない。君主の「政治的理念」の影響は否定しないが、既述のようにそれは支配層の全体的意思に規定・拘束されており、その意思は支配層の歴史的特質に規定されると考えられる。したがって、基本的には(ア)・(イ)もこのような特質との関連で説明されるべきであろう。
 そして、このような支配層・国家機構の歴史的特質を規定するのが「人格的身分的結合関係」であることは既述の通りである。したがって、この概念を欠いては、「延暦一七年制」の意義を把握することもできないと言える。「王権との歴史的奉仕関係」という概念は放棄し、「人格的身分的結合関係」を使用すべきである。
 他に「延暦一七年制」の意義を把握する上でも一つの前提となる大宝令の郡領任用基準制度の毛利の理解(「郡領の任用と『譜第』―大宝令制の構造と特質ー」〔『続日本紀研究』三三八、二〇〇二年〕)については、拙稿C参照のこと。
*24)「延暦一六年(七九七)一一月二七日太政官符」(『類聚三代格』巻七)。
*25)「延暦一七年(七九八)二月一五日太政官符」(『類聚三代格』巻七)
*26)「延暦一七年(七九八)三月二九日太政官符」(『類聚三代格』巻七)・同年一〇月丁亥条。
*27)「延暦一七年(七九八)三月二九日太政官符」・同年一〇月丁亥条(註(26)前掲)。
*28)「延暦一九年(八〇〇)一二月四日太政官符」(註(17)前掲)。
*29)「延暦一九年(八〇〇)一二月四日太政官符」(註(17)前掲)。
*30)また、「人格的身分的結合関係」のこのような位置は、唐の「才用」規定を継受せず、任用の直接の前提が位階の保持になる一般官人の場合も同様であり、同じく孝徳朝に成立したと認識されていた「公務」・国家機構一般の在り方の「改革」でもあった。
*31)毛利前掲論文。
*32)「延暦一九年(八〇〇)一二月四日太政官符」(註(17)前掲)。なお、唐選挙令は「才用」(「才能」)を審査するための基準(その具体的内容)を明確化している(大隅清陽「律令官人制と君臣関係ー王権の論理・官人の論理ー」〔『律令官制と礼秩序の研究』吉川弘文館、二〇一一年。初出は一九九六年〕など参照)。しかし、言うまでもなくそれは「才用」の語それ自体から導き出されるものではなく、唐の「貴族社会の価値観」(大隅論文、一四一頁)を媒介としたものである。
*33)弘仁二年(八一一)二月己卯条・「同年二月二〇日詔」(註(19)前掲)。
*34)このような認識においては、国内・郡内の情勢は必ずしも任用に当たって重要な要件とはならず、(bー2)のように、「本国」を経ず、式部省が独自に「簡試」する場合が認められると考えられる。
*35)『延暦交替式』の巻末奏上文には「庶(こいねが)わくは、諸国をして遵奉し以て失わ(せしめ)ず」とあり、交替政における国司の失錯を正すことが編纂目的の一つであったことが分かる。
*36)表1-№23。
*37)表1-№25。
*38)なお、国司制で触れた(ⅰ)~(ⅲ)の事例には郡司も関わると見られる。例えば、(ⅰ)の対応措置は「内外の官人」を対象とし、(ⅱ)は「国宰・郡司」の「怠慢」を問題とし、(ⅲ)は「国司以下」の「犯」が問題とされる。しかし、基本的に問題とされているのは国司と見るべきであろう。
*39)四月壬寅条。
*40)梅村喬「公廨稲制と補填法の展開ー専当人補填から共填へー」(『日本古代財制組織の研究』吉川弘文館、一九八九年)一〇二頁など参照。
*41)なお、「訪察」の語は第Ⅴ期の事例では表1-№26の観察使の評定基準(「大同四年(八〇九)九月二七日太政官符」〔『類聚三代格』巻七〕)に見える。
*42)観察使については福井前掲書、大塚徳郎「平城朝の政治」(『平安初期政治史研究』吉川弘文館、一九六九年。初出は一九六二年)、笠井純一「観察使に関する一考察」(『続日本紀研究』一九四・一九五、一九七七・七八年)、春名宏昭『平城天皇』(吉川弘文館、二〇〇九年)など参照。
*43)延暦五年(七八六)四月庚午条(前掲)・「同年同月一九日太政官奏」(『類聚三代格』巻七)。
*44)「大同四年(八〇九)九月二七日太政官符」(註(41)前掲)。
*45)なお、昇進については、五位以上の対象者については、事を量った上での「進階」、六位以下の対象者については、「不次に擢でて」五位を賜与するとされる。
*46)詳しくは記さないが、改訂の重要なポイントは例えば冒頭で「撫育に方ありて戸口増益す」「農桑を勧課し倉庫を積実す」について、増減の「分数」などが定められているように、進階・擢授及び解任の基準を精緻化することにあると見られる。
*47)福井前掲書、一三〇頁以下参照。
*48)なお、拙稿Eでは令制の「試練」の筆記試験について、(1)在地首長層の郡領としての適性評価機能を疑問視し、(2)その意義を在地首長層もディスポティシズムの原理に編成されていることを象徴的に示す点に求めた。今のところ、令制の筆記試験についてはこの見解に修正の必要は感じていない。
 しかし、毛利前掲論文によれば「延暦一七年制」によってこのような「試練」・筆記試験の性格に変化が生じていた可能性を指摘できる。
 すなわち、毛利は同制により「式部省で(「芸業」的)「才用」を審査する階梯はこの時初めて組み込まれた」(一二頁)とする。後述のように、毛利は在地首長層が郡領任用に当たって「甲」(甲・乙・丙などの筆記試験の成績)を競ったと認識しているので、同制においては、筆記試験によって郡領としての適性が評価されたと想定していると考えられる。
 「試練」が法制上、「才用」を審査する場と位置付けられている以上、「芸業」が「試練」・筆記試験で審査される形になるのは当然と言える。
 拙稿Eとの関わりで問題になるのは、それが実質的に在地首長層の適性評価機能を有しているかという点である。
 毛利の指摘の中で、このような評価機能の存在の根拠となるのは前述の在地首長層が筆記試験の成績を競ったとの理解である。これは、弘仁三年(八一二)六月壬子条に、郡領任用につき在地首長層が「第を争い甲を競う」とあるとの認識に基づく。
 しかし、この認識は成立しない。
 該当部分は和学講談所(塙保己一)板行の版本(「塙板本」)を底本とした訳注日本史料本には確かに「第を争い甲を競う」とある。しかし、同本の校異註により三条西家旧蔵本(「三本」)は「第を争い、相競う」とあり、「甲」の字は存在しないことが知られる(六一四頁)。一方、該当部を収載した「同年八月五日太政官符」(『類聚三代格』巻七)には「三本」同様「第を争い、相競う」とあり、新訂増補国史大系本の校異註による限り、写本間の異同は確認されない。『後紀』においても「三本」が「塙板本」の祖本と見られることからも(齋藤融「残存巻について」〔訳注日本史料本〕参照)、現在、把握できる該当部の文字の異同に関する知見の限りでは「第を争い、相競う」が本来の記述であった可能性が高い。
 とすれば、現在のところ、在地首長層が「甲」(筆記試験の成績)を競ったという理解は成立しない。一方、「第を争い」についても該当部が前年の「譜第之選」復活を受けた記述である以上、「譜第」の意と取るべきであり、「譜第の優劣」(「第Ⅴ章」註(2)前掲天平勝宝元年二月壬戌条)を競ったと理解すべきであろう(森註(21)論文)。
 したがって、毛利の指摘の限りではこのような評価機能については確認できないことになる。
 しかし、以下の根拠によってこのような評価機能が存在した可能性を指摘できる。
 すなわち、大宰府が郡領の「才能を歴試」した結果、「未だその人を得ず」という状況に陥ったことが確認できることである(註(17)前掲「延暦一九年〔八〇〇〕一二月四日太政官符」)。
 この史料は前述の「条目」の存在を示すものであるが、ここでの「歴試」は毛利が指摘するように西海道における「試練」であり、筆記試験によるものと考えられる(毛利論文一二頁。ただし「未だその人を得ず」の部分については言及がない)。その結果、「未だその人を得ず」(郡領としての適任者を得られない)状況になったとすれば、筆記試験が適性評価機能を備えていたことになる。
 すなわち、結論的には毛利の想定は支持し得る可能性がある。
 とすれば、(1)はもちろんのこと、ディスポティシズムの原理も単に「象徴」的に示すに留まらないので、(2)も変化することになる。また、これは、「試練」の基本的意義が「意識の内部の支配」の基本的手段に留まらなくなったことをも示している。
 今後、なお検討したいとは思うが、差し当たり第Ⅴ期に「試練」の性格・意義に変化があった可能性があることを指摘しておきたい。
*49)「一一月二七日太政官符」(註(24)前掲)。
*50)「二月二六日太政官符」(『類聚三代格』巻七)。
*51)早川庄八「選叙令・選任令と郡領の『試練』」(「第Ⅰ章」註(7)書。初出は一九八四年)。なお、拙稿Eも参照。
*52)「延暦一六年(七九七)一一月二七日太政官符」(註(24)前掲)。
*53)大町健「「畿内郡領と式部省『試練』」(『日本歴史』四六六、一九八七年)・拙稿E参照。
*54)延暦一八年(七九九)四月壬寅条(註(39)前掲)。
*55)天平宝字元年(七五七)正月甲寅条(「第Ⅴ章」註(9)前掲)。
*56)郡司制においては「意識の内部の支配」の強化措置として積極的意義を有するのは昇進に過ぎないが、対応措置が見られるのは確かである。
*57)福井前掲書、二六四頁。註(42)前掲論文・文献参照。
*58)弘仁元年(八一〇)六月丙申条。
*59)福井前掲書、一三三頁。
*60)「弘仁八年正月二四日太政官符」「天長二年閏七月二六日太政官符」(いずれも、『類聚三代格』巻七)。
*61)米田「第Ⅴ章」註(35)書など参照。
*62)なお「出挙公廨制」については、「延暦五年(七八六)六月一日格」(「延暦二二年二月二〇日太政官符」〔『延暦交替式』〕所引)における前後司間の、「延暦一二年(七九二)二月一五日格」(「貞観八年三月七日太政官符」〔『類聚三代格』巻六〕)における和泉国などの守と掾の、「公廨」の配分率を規定する措置などが見える。
*63)二月壬申是日条。なお、職分田は史料上では「職田」。
*64)正月甲辰条。なお、職分田は史料上は「公廨田」。
*65)同月乙酉条。
*66)八月丁亥条(なお、職分田は史料上は「公廨田」)・九月丁酉条。
*67)「大同三年(八〇八)二月五日太政官符」(『三代格』巻六)。なお、同官符では同年に、「国司俸」の停止に伴い、事力とともに「公廨」((D)-(b))が復活したことになっている。したがって、前年の八〇〇年に職分田・「公廨」とともに事力の復活(及び「国司俸」の停止)が宣言され、八〇一年に至って実施されたということかもしれない。
*68)二月乙丑条。
*69)薗田「第Ⅲ章」註(31)論文七九~八〇頁、山本「第Ⅲ章」註(28)論文一二頁などに言及はあるが、十分に検討されているとは言えない。
*70)「二月五日太政官符」。なお、事力の支給は「天長二年(八二五)閏七月二二日太政官符」により復活(ともに『類聚三代格』巻六)。
*71)そもそも、本稿の「規律」の概念は古代における「罪」「犯」などの概念に必ずしも即しているわけではなく、その認定に限界があることは後述する通りである。
*72)№107の「免官」を(ウ)「解任」と見れば五例、名例律19の発動と見れば六例となる。
*73)吉田A論文。
*74)長山「第Ⅱ章」註(29)論文参照(長山の指摘については同註で関説)。
*75)「一般的表現」の一年あたりの発動頻度は〇.八六~〇.八九になる。表2-Bから第Ⅴ期が最高値であることは明らかと考えられるので、第Ⅰ~Ⅳ期との比較は省略する。
*76)№119の規律発動を『貞観』に従えば一八例、『後紀』に従えば一九例となる。
*77)違勅罪同様、№119の規律発動を『後紀』に従えば一二例、『貞観』に従えば一三例となる。
*78)福井前掲書など。
*79)註(72)で触れた№107の「免官」を、名例律19の発動と見れば一五例、(ウ)「解任」の発動と見れば一六例になる。
*80)吉川真司「律令官僚制の基本構造」(「第Ⅱ章」註(41)書。一九八九年)。ただし、禄を位階と同様の「基本的紐帯」と看做すことはできないことについては、拙稿B参照。
*81)前述の推定のようにそれが財政問題の一環であるとすれば、財政さらにそれを基盤とした職務執行が「人格的身分的結合関係」の秩序から「独立化」していく傾向を示す。
*82)(あ)七八一年(天応元)の詔における「貶降」「顕官の賜与」の宣言・(い)七八六年(延暦五)の「条例」など。
*83)註(19)前掲。
*84)ただし、良人共同体における「人格的身分的結合関係」の「基本的紐帯」である姓の秩序については、『新撰姓氏録』が編纂されたが未完に終わった。なお、長谷部将司「氏族秩序としての『勅撰』漢詩集」(『国史学』一九一、二〇〇七年)、仁藤註(14)論文などに検討がある。
*85)弘仁期以降、本格的に導入される「唐風文化」については君臣関係の維持・強化の側面があり、このような弱点・課題の克服であった可能性がある。「唐風文化」の概況については差し当たり、笹山晴生「唐風文化と国風文化」(『岩波講座日本通史 五』岩波書店、一九九五年)、「唐風文化」と君臣関係の関連などについては長谷部註(84)論文など参照。.  この論文の末尾には「四六・一二・二五」と執筆年月日が記されている。つまり遅くとも1946年末までに著者は、上のような定義を「第三国人」という用語に与えていたことになる。しかし1946年末までにGHQや連合国側が「第三国人」に相当する語を使用した事例は確認できない。興味深いのは1946年7月の時点で、GHQの指令中に見られる「非日本人」(Non-Japanese Nationals)という言葉を、日本側が「第三国人」と言い換えている例が存在することである。
 

【2】 466. 3  寫作任務 :  建構一個模式
5. Crimson Interactive is not responsible for the accuracy of any of the information supplied by the Bloggers. と評価する(「上卿制の成立と太政官組織」〔「第Ⅰ章」註(7)書〕一五九頁。以下、早川A論文)。
 この「中国的な、律令法のたてまえとする絶対的な権威と権力をあわせもつ皇帝」とは、例えば大宝・養老律令(及び唐律令)が理念としている、律令法の条文に拘束されない(したがって、臣下に拘束されない)天皇制・皇帝制の在り方を指す。
 ここで具体的に問題とされているのは、この時期における天皇の「権威と権力」の在り方である。早川は、少なくとも桓武の「政治的理念」においては、天皇が「統治権の総攬者」として、いわば無拘束の権力を獲得した状態が志向されたと想定していると考えられる。
 早川の指摘は基本的に桓武個人が追求した課題に関するものであり、その指摘は桓武の「政治的理念」の範囲内に留まるものである。当然ながら、歴史的に実在し、桓武がその地位を占めたこの時期の天皇制の在り方を全面的に論じたものではなく、その視角の限定性は後述のように問題とせざるを得ない。ただし、そのような限界を持ちながらもこのような在り方に関する一つの提起であるとは評価できる。
 その後、早川は「律令国家・王朝国家における天皇」(『天皇と古代国家』講談社学術文庫、二〇〇〇年。初出は一九八七年。以下、早川B論文)においてこの評価を再確認している(二四〇頁)。この際、基本的な根拠となったのは八世紀の即位宣命と天命思想(皇統意識)の分析であったことは周知の通りである。
 さて、早川の提起を受けた桓武朝に関わるその後の研究は枚挙に暇がないが、その根拠ともなった天命思想・皇統意識について、以下のような研究が発表されている(関連研究はほかにも存在するが割愛する。基本的傾向はこれらの研究と同様である)。. を指摘できると考える。

・(Ⅱ)地方行政機構の維持・運営の在り方

 次に、(Ⅱ)地方行政機構の維持・運営の在り方について。
 まず、(β)「意識の内部の支配」の位置付けについては、その低下に一層拍車がかかっていると考えられる。
 次に、(γ)「単一的支配」について。
 直接生産過程からの分離については、第Ⅳ期においても支配層の政策的課題とは認識されていない。
 一方、規律については、その政策的位置が一層、上昇し、これに対応してその展開も進行していることを指摘できる。
 これは規律の、地方行政機構の維持・運営における主力としての位置が、第Ⅳ期に入って一層強化されていることを示している。.  なお、前述の「一般的表現」については、七例を確認できる。

・(ア)律の規定

 まず、表1について。
 前述のように「中央派遣使」の活動において規律の発動が命じられた事例が二例見えるが、それらは(ア)律の規定かそれを主体とするものと考えられる。
 まず、№9は流罪・除名が発動されており、当然(ア)律の規定の発動である。
 また、№15は「法により科罪せよ」と「一般的表現」が取られているが、国内行政全般が対象となることから、(ア)律の規定を少なくとも主体にしていると考えられる。
 後述の(イ)「欠失補填」~(エ)経済的特権の剥奪の状況を考えれば.

 次に、(a)・(b)それぞれの意義について検討する。
 まず、(a)が、(b)と並ぶこの制の柱であることを確認しておく。この点は、この制に言及したすべての史料が、(b)のみならず、(a)に触れている*19)ことから明らかである。
 したがって、この制の意義は、単に(b)の新たな任用基準の設定にあるのではなく、(a)の「譜第之選」の否定にもあることが知られる。任用基準制度の上では、(b)が主眼であるにもにもかかわらず、(a)がそれと少なくとも同等の意義を与えられているのが、この制の特徴である。
 では、なぜこのような否定がかかる重要な意義を持つのか。
 それは、この制が孝徳朝以来の「郡領」任用の在り方の「改革」と位置付けられたからである。
 ここでの「譜第之選」は、孝徳朝以来の「郡領」任用の在り方(「昔難波朝廷、始めて諸郡を置く。扔りて労あるを択びて郡領に補す。子孫、相襲ぎて、永くその官に任ず」)と認識されているのであって、その「抜本的改革」と位置付けられた点にこそ、「延暦一七年制」の第一の意義がある。
 この点は、それ以前の郡領任用の「歴史」にほとんど触れることのない、譜第副進制・嫡々相継制とは全く異なる特徴である。後世の儀式書に見える「労効譜第」という範疇*20)や八世紀の郡領任用の在り方を示す諸史料から、必ずしも実態と整合しないと見られるにもかかわらず、前記の引用に見えるように「郡領」が孝徳朝から「(立郡)譜第」の者に限定されてきたかのような記述がなされているのも、かかる意義を強調するためであろう。
 なお、嫡々相継制がこの制によって廃止されたことは確かだが、このような「改革」・否定の一環に過ぎず、この制の本来の意義を示すものではない。
 では、なぜこのような「改革」がなされたのか。この問題は、(b)の「芸業著聞」なる者の任用の前提ともなる。
 この点については、(1)「譜第」相互での「郡領任用抗争」の阻止、(2)「郡務」遂行能力を有する者の任用*21)、(3)国司権限・郡領「私門」の抑制*22)といった目的が指摘されている。しかし、(1)は、(ア)「延暦一七年制」が「改新」以来の一大「改革」と位置付けられたことを説明できず、(2)は、(イ)かかる能力が「芸業」とされたことの必然性が不明となる。(3)は、(ア)・(イ)について一応、説明しているが、その根本的根拠が桓武の〈新王朝〉観念に求められており、説明に無理があると言わざるを得ない*23)。
 この問題については、改めて検討が必要な研究状況にあると言える。
 まず、この時期の郡司制において何が問題にされているかを、把握しよう。諸法令を見ると、「雑務」*24)「公務」*25)「公家」*26)といった問題が強調されていることが分かる(ここでは前二者などを一括して「郡務」とする)。
 それは単に一般的問題として述べられているのではなく、「私門の日益在りて、公家に利せず」という理由で、慶雲三年(七〇六)以来、継続されてきた出雲国意宇郡大領と出雲国造の兼任を禁止する*27)ほどの意義を有していた。これは、法制度とは別次元で「例」*28)として結合されてきた大領と神祇とを分離する措置である。筑前国宗像郡でも同様の措置が取られている*29)が、在地首長層を任用するという郡司制の性格を考えれば、この時期の「郡務」「公家」の意義の大きさが分かる。実際、後述のように「意識の内部の支配」に関わる事例では、(1)「雑務」遂行の「意識の内部の支配」に対する優先、(2)「擬用之日、おのおの競いて辞退す」という状況による「郡務闕怠」が確認され、「郡務」の維持が喫緊の課題となっていたと考えられる。
 次に、「譜第」の設定とは既述のように(ア)身分制的差別に准ずる措置であり、「譜第」とは、「人格的身分的結合関係」における「優越的」な地位を示す。したがって、(a)「譜第之選」の停廃とは、このような地位が「郡務」の直接の前提とはならないことを示している。
 言い換えれば、このような地位を前提とした「郡務」の在り方では維持は不可能と判断されたと考えられる。. を把握し、第Ⅰ期の地方行政機構の維持・運営の特徴を検討する。
 まず、(Ⅰ)地方行政機構の維持・運営における、支配層の「基本的政策課題」について。
 この点については、律令制国家における位置から考えて、(α)「人格的身分的結合関係」の分析結果を重視すべきであろう。
 すなわち、(Ⅰ)地方行政機構の維持・運営における、支配層の「基本的政策課題」として、(Ⅰ)’(イ)同質性・ディスポティシズムの原理への国郡司の編成、を指摘することができる。(β)「意識の内部の支配」において、主政・主帳を基本的対象とした措置((A)「試練」・(B)続労)が見えるのも、郡司制の末端である彼らに、(イ)同質性・ディスポティシズムの原理を浸透させるためとと考えられる*39) 。
 次に、(Ⅱ)地方行政機構の維持・運営の在り方について。
 前述のように、問題となるのは(β)「意識の内部の支配」と(γ)「単一的支配」の位置付けである。
 結論から言えば、(β)「意識の内部の支配」が根幹としての位置を占めていたと考えるべきであろう。
 (β)「意識の内部の支配」の各措置については、いずれもその強化措置であるか、少なくともその側面・支配層におけるその重視を指摘することができる。
 一方、(γ)「単一的支配」についてはこのようには言えない。
 直接生産過程からの分離については、支配層の政策的課題としては認識されていなかったと考えられる。
 また、規律については、一定の政策的位置を占めていたことは確かだが、必ずしも重視されていたとは言えず、現実的な機能の面でも限界があったと見られる。
 しかしながら、(γ)「単一的支配」がそれなしには国家機構が運営できない性格のものであることを考慮すれば、前述のように(β)「意識の内部の支配」を重要な手段とする(α)「人格的身分的結合関係」の秩序の構築・維持によりそれが構築・維持されるという位置付けになっていたと見るべきであろう*40)。
 すなわち、第Ⅰ期の地方行政機構の維持・運営は、基本的に律令法のそれに基づいて行われていたと考えられる。. 書名:英文研究論文寫作-文法指引,原文名稱:Grammar for the Writing of English Research Papers,語言:繁體中文,ISBN:9575323181. 5  撰寫一則研究方法
第三章 研究結果的撰寫
3.  既述のように、良人共同体という形態に基づく、八世紀の(α)「人格的身分的結合関係」の「基本的政策課題」における位置付けの変化は、光仁即位を契機としていたと考えられる。
 これは、このような位置付けなどが権力闘争などの政治的要因によって変化する、「政治的可変性」の側面を有することを示している。
 また、この光仁即位が従来、指摘されてきたような「王統交替」であるとすれば、このような位置付けの変化は「天武直系的なものの払拭」*20)の一環であった可能性が想定される。
 この場合、良人共同体という形態自体が「天武系」という「王統」と一定の結びつきを有していた可能性も考えられる。
 もとより、光仁即位は契機に過ぎず、上記のような「政治的可変性」を過大に評価することはできない。
 また、「第Ⅶ章」註(14)で述べたように、早川説をはじめとする「王統交替」を強調する学説には、近年では異論も提示されており、基本的な認識の点でも問題があるので、現在、その提起を直接、継承することはできない。
 さらに、前章で述べたように、第Ⅳ期の光仁朝は勿論、第Ⅴ期の桓武朝の措置も大宝・養老令で規定された国家体制の枠の中にあり、ー最終的な評価は措くとしてもーその意味では第Ⅲ期以前との連続性の中に存在している。少なくとも断絶性のみを強調するのは正しくない。
 しかしながら、このような「政治的可変性」の問題及び光仁・桓武の「政治的理念」とその措置への影響は、(α)「人格的身分的結合関係」の展開を独自に分析し、さらにそれを律令制国家・古代国家の展開過程の中に位置づける上で重要な意義を有すると考える。
 従来、良人共同体という形態に基づく、律令制国家の(α)「人格的身分的結合関係」については、在地の共同体の歴史的特質の反映とされ、後者の規定性が強調されてきた*21)。
 このような議論の意義を否定するわけではないが、単にその指摘のみに留まるのであれば、問題は在地社会論・共同体論に還元されざるを得ず、(α)「人格的身分的結合関係」の独自の分析の意義さえ否定されかねない。
 しかし、言うまでもないが、このような基本的な規定性を踏まえ、(α)「人格的身分的結合関係」の在り方を独自に分析することが、在地社会論・共同体論を深化させる上での知見も提示するのである。
 この際、その分析が律令制国家の展開過程に独自の知見を提示するものである必要があることは言うまでもない。
 以上のような「政治的可変性」及び光仁・桓武の「政治的理念」とその措置への影響はこのような要請へ対応する上で、有力な課題となる可能性がある。
 前記のような限界は否定できないが、その重要性を否定することはできないであろう。. の在り方の把握である*12)。
 (ア)身分制的差別は、その名の通り、「人格的身分的結合関係」における身分制的差別を指し、(イ)同質性とは、(ア)身分制的差別にもかかわらず、天皇の前では臣下として同一平面におかれるという意味での「同質性」を指す。この二点は、律令制国家における「人格的身分的結合関係」の基本的特徴をなすと考えられ、その在り方の把握の深化は、「人格的身分的結合関係」の特徴の把握の深化につながると考えられる。
 ただし、国司制については(ア)身分制的差別・(イ)同質性ともに独自の措置は見られず、官位相当制に編成された一般官人に対する措置が発動されたと考えられる。したがって、本稿ではこのような一般官人に対する措置についての先行研究を可能な限り援用して、その傾向の把握に努めたい。

(2)(β)「意識の内部の支配」

 「意識の内部の支配」とは.

 既述のように、良人共同体という形態に基づく、八世紀の(α)「人格的身分的結合関係」の「基本的政策課題」における位置付けの変化は、光仁即位を契機としていたと考えられる。
 これは、このような位置付けなどが権力闘争などの政治的要因によって変化する、「政治的可変性」の側面を有することを示している。
 また、この光仁即位が従来、指摘されてきたような「王統交替」であるとすれば、このような位置付けの変化は「天武直系的なものの払拭」*20)の一環であった可能性が想定される。
 この場合、良人共同体という形態自体が「天武系」という「王統」と一定の結びつきを有していた可能性も考えられる。
 もとより、光仁即位は契機に過ぎず、上記のような「政治的可変性」を過大に評価することはできない。
 また、「第Ⅶ章」註(14)で述べたように、早川説をはじめとする「王統交替」を強調する学説には、近年では異論も提示されており、基本的な認識の点でも問題があるので、現在、その提起を直接、継承することはできない。
 さらに、前章で述べたように、第Ⅳ期の光仁朝は勿論、第Ⅴ期の桓武朝の措置も大宝・養老令で規定された国家体制の枠の中にあり、ー最終的な評価は措くとしてもーその意味では第Ⅲ期以前との連続性の中に存在している。少なくとも断絶性のみを強調するのは正しくない。
 しかしながら、このような「政治的可変性」の問題及び光仁・桓武の「政治的理念」とその措置への影響は、(α)「人格的身分的結合関係」の展開を独自に分析し、さらにそれを律令制国家・古代国家の展開過程の中に位置づける上で重要な意義を有すると考える。
 従来、良人共同体という形態に基づく、律令制国家の(α)「人格的身分的結合関係」については、在地の共同体の歴史的特質の反映とされ、後者の規定性が強調されてきた*21)。
 このような議論の意義を否定するわけではないが、単にその指摘のみに留まるのであれば、問題は在地社会論・共同体論に還元されざるを得ず、(α)「人格的身分的結合関係」の独自の分析の意義さえ否定されかねない。
 しかし、言うまでもないが、このような基本的な規定性を踏まえ、(α)「人格的身分的結合関係」の在り方を独自に分析することが、在地社会論・共同体論を深化させる上での知見も提示するのである。
 この際、その分析が律令制国家の展開過程に独自の知見を提示するものである必要があることは言うまでもない。
 以上のような「政治的可変性」及び光仁・桓武の「政治的理念」とその措置への影響はこのような要請へ対応する上で、有力な課題となる可能性がある。
 前記のような限界は否定できないが、その重要性を否定することはできないであろう。. ・(ア)身分制的差別

 国司制を含む一般官人に対する措置は、現在のところ、審らかにし得ない。
 郡司制においては、七九八年(延暦一七)に、「譜第之選」を停廃し、郡領に「芸業著聞にして郡を理めるに堪える者」を任用する措置(以下、「延暦一七年制」*15))が取られたことを指摘できる。これにより、嫡々相継制が廃止されることになった。
 もっとも、筆者はこの措置は、単に「人格的身分的結合関係」の特徴・在り方自体に関する措置ではなく、また、嫡々相継制の廃止も付随的意義を与えられているに過ぎないと考える(後述)。
 しかし、形としては(ア)身分制的差別の設定に准ずる措置は廃止されたことになる。

・(イ)「同質性」

 国司制を含む一般官人に対する措置は、現在のところ、審らかにはし得ない。
 郡司制においては、前記の「延暦一七年制」によって、(イ)同質性が徹底する形となったが、単に「人格的身分的結合関係」の特徴・在り方に関する措置ではないと見られることは、既述の通りである。

・まとめー「行政の『相対的独立化』」-

 まず、郡司制について検討する。
 郡司制について問題になるのは、当然ながら「延暦一七年制」の意義である。
 まず、その内容を把握する。この措置を命じた「三月丙申詔」は取意文に過ぎないが、
(a)「譜第之選」は永く停廃に従う
(b)「芸業著聞にして郡を理めるに堪える者」を郡領に任用する. の二点が必要である。(い)は、(2)の解任規定が、昇進(降格)制度の一環から規律(処罰規定)へ性格を変化させることを意味する。
 この内、(あ)が一定度、行われた事例が存在する。
 すなわち、七一五年(霊亀元)には、郡司を、(ⅰ)「産業を勧催し資産豊かに足る者」を上等、(ⅱ)「催勧を加うと雖も衣食乏しき者」を中等、(ⅲ)「田疇荒廃し百姓飢寒して因りて死亡を致す者」を下等、と三区分した上で、(ⅲ)に区分された者で死亡した百姓が一〇人以上ならば解任する措置が確認される(表2-Aー№12)。
 この場合、(ⅲ)から解任の対象となる行政行為が、一〇人以上の百姓が「田疇荒廃し飢寒して因りて死亡を致す」ことと具体化・特定化されていると言ってよい。
 しかし、一方(ⅲ)下等のみならず、(ⅰ)上等・(ⅱ)中等も設定され、さらにその前提となる監察が巡察使の「観省」によると見られること、からすれば、少なくとも(ⅰ)上等の者が勤務評定の点で何らかの優遇を受けるものと想定され、昇進(降格)制度の一環という性格は継承されている。
 すなわち、(い)は行われていない。
 この事例は(2)の基本的性格を引き継ぎつつも、(ウ)「解任」への近似を示す、中間形態と考えられる。
 また、(い)の現象の発生に大きな支障があるとは思われない。この事例から昇進(降格)制度との関連を示す三区分を省き、「田疇荒廃し百姓飢寒して因りて死亡を致す者一〇人以上ならば解任」とのみ規定すれば、(ウ)「解任」と同一形態になる。これ自体は、考選制度・昇進(降格)制度に何ら影響を与えるものではなく、後述のように、第Ⅰ期から(ウ)「解任」が頻出していることからすれば、法制上も大きな問題はなかったと考えられる。
 次に第二の「罪」「科罪」などとの関係は、あくまで法概念上の問題であり、当時の支配層の一般的認識を示すとは必ずしも言えない。すなわち、律令法編纂時の支配層の「罪」「科罪」などの認識が、発動対象行為あるいは(ウ)「解任」をその範疇に含め得るものに転化し得る内容であったことは十分に想定される。
 後述の発動の簡便さという利点を考慮すれば、(2)から(ウ)「解任」への変化は容易に生じ得るものであったと考えられる。
 一方、(1)については、必ずしもこのようには言えない。
 (1)が(ウ)「解任」に転化するには、第一の形態面において、まず(2)同様、(あ)発動対象となる行政行為を具体化・特定化することが必要になる。
 次に、(い)除免官当の発動を排除し、解任を独自の措置とすることが必要となるが、第二の「罪」「科罪」などの認識の問題を考慮すれば、これは本来、付随的現象であった解任を除免官当と並ぶ独自の規律と位置付けることを意味する。
 いずれも(ア)律の規定の刑罰の在り方・体系の抜本的変更と言ってよい。もとより、「罪」「科罪」などの観念に見えるように、支配層の一般的認識と律令法の在り方は、必ずしも整合しないが、だからと言って、第Ⅰ期の段階からこのような抜本的変更がなされる事態は想定し難いと言える。(1)が(ウ)「解任」の発動に当たって、一定度の影響を与えた可能性があるが、それが淵源となって(ウ)「解任」が成立したとは看做し難いであろう。
 以上から、(ウ)「解任」は律令法には存在しない独自の規律であるが、(2)考課令58犯私罪条の解任規定を基本的法的淵源として成立したと考えられる。
 なお、「延暦一七年四月七日太政官符」(『延暦交替式』。表2-A-№115)は、遷任国司と新任国司への(ウ)「解任」の発動に(2)を準用しており、以上の想定の傍証とし得る。. (1)直接生産過程からの分離ー「出挙公廨制」と律令制国家の(γ)「単一的支配」ー

・地方行政機構における直接生産過程からの分離の、二つの問題

 律令制国家の地方行政機構における(γ)「単一的支配」を考える上で、極めて重要な意義を持つのは、実は直接生産過程からの分離の問題と考えられる(支配層の課題認識との関係については後述)。
 また、かかる分離の媒介は物的給与制度であるが、国司制におけるかかる制度としての意義を持つ「出挙公廨制」は(γ)「単一的支配」の強化の上で、画期的意義を有していたと考えられる。
 しかし、地方行政機構におけるかかる分離については、以下の問題を指摘できる。.  次に、(2)について。
 結論から言えば、以下のような疑問を指摘できる。
 まず、国司制における措置について。
 (A)-(a)考選制度について、強化措置としての意義を有するのは考課の厳格化宣言である。
 しかし、そもそも、考選制度には、既述のように実質的に上日と考中行事という即物的な数値に基づかざるを得ないことによる問題が指摘されており*25)、「意識の内部の支配」が動揺する中でどこまで有効に対処できるかは疑問である。また、第Ⅲ期には確認される内長上の考課の「画一化」・形骸化が、この時期に遡る可能性も否定はできない。
 (A)-(b)「中央派遣使」による「訪察」については以下の問題を指摘できる。
 第一に、既述のように臨時官であり、その「訪察」が一過性であることを指摘せざるを得ない。実際、(ⅰ)の事例では、「訪察」は四考終了ごとに行われることとなっていたが、実現はしなかった。
 第二に、「中央派遣使」の「訪察」の「客観性」に疑問が呈されている。(ⅰ)の巡察使の事例では、「比年以来、任せる使人、訪察精らかならずして、黜陟、濫りがわしきことあり。」とされ、巡察使自体の「意識の内部の支配」が既に動揺していることが分かる。すなわち、「中央派遣使」の「訪察」の本来的な意義が失われてきていることを示している。
 第三に、詳細化された「訪察」基準についても、考選制度の善最基準と同様の問題を有していた可能性もある。
 次に、郡司制については、特に措置が取られていないので有効性以前の問題と言える。「意識の内部の支配」の動揺という新たな事態に、第Ⅰ期以来の(A)「試練」のみで対応できないのは明らかと考えられる。
 したがって、第Ⅱ期においては、(2)’「意識の内部の支配」において、有効な措置は取られなかったと考えられる。.  以上のように、中央のレベルでGHQが「第三国人」という語を使用した事例は確認できないのだが、連合国占領軍の地方軍政部による指令の中にも検討を要するケースがある。たとえば終戦連絡横浜事務局が1946年12月に作成した次の資料【5】では、同年8月29日、第8軍憲兵課長らが神奈川県警に対して「第三国人」への取締を指示したと述べている。
 

【5】 第三国人の経済法規違反行為取締の件  神奈川県当局では本年始めからこの間題について軍政当局へ陳情をしていたが、この点に関するGHQの指令に不明な点もあり最近までこれを看過するの外なかつた処、八月一日以降のやみ取引取締強化実施を機会に八月十三日第八軍幹部からの招請もあり県経済防犯課長出頭現状を説明し、更に二十九日第八軍憲兵課長及法務官の招請で県警察部長出頭、大約左の如き指図を受けたので直ちに積極的の取締りにとりかかることになつた。 一 横浜市の如き進駐軍の駐屯地では日本警察の要請に応じて進駐軍憲兵を日本警官に同伴出動せしめるから、日本側は憲兵隊の指揮の下で行動する形で第三国人に対する捜査、逮捕、抑留を行ふこと(裁判は進駐軍の法廷で行うこと) 二 進駐軍の駐屯せぬ土地では日本側の警察で単独に第三国人の捜査、逮捕、抑留をなすことが出来るが、直ちに最寄りの進駐軍部隊又は憲兵隊へ連絡してその指揮を受けること  なお前記第八軍当局の説明では、右はGHQからの新たな指令があるまでの措置で、神奈川県でのみならず全国的に同様の方法で取締を行つてよいとのことである。又第八軍司令官はこの問題に重大な関心を持つておるから、各地共第三国人の不法行為は駐屯部隊へ報告をなしその協力を得て今後厳重に取締るべきであるとのことであつた。 (終戦連絡横浜事務局「YLO執務報告(昭和二十一年十二月)」横浜市総務局市史編集室編『横浜市史II』資料編I、横浜市、1988年、39頁).  以上の諸研究によって、個別的事実についての認識は深化されたと言える。
 しかしながら、早川が本来、問題にしたこの時期における天皇制の「権威と権力」の在り方については提起がなく、問題が個別的論点に矮小化している傾向を指摘できる。
 例えば、(1)は早川の先の評価を継承するが、「中国的皇帝」の内実については、桓武が唐の太宗を君主の理想としたとの指摘に留まる。
 (2)も皇統意識の専論と言ってよい。
 (3)は皇位継承などの在り方について独自の知見を示すが、継承される「権威と権力」の在り方について正面から論じているわけではない。
 (4)の昊天祭祀は神祇令に継受されず、河内が指摘するように「国家祭祀が支配の思想的基盤に位置するためにその改変がきわめて困難であった」(三〇頁)ことからすれば、桓武朝に始まるその挙行は天皇の権威の変質と関わる問題と見られる。しかし河内論文においては、論点が「皇位の安定化と直系継承」という天皇における権力維持(広い意味での権力闘争)に収斂されている。
 もとより、本稿も主題の関係もあって、この時期の天皇制とその「権威と権力」の在り方について独自の知見を提示することは不可能である。
 そこで、ここでは本稿の検討結果をも踏まえて、早川説の基本的問題を指摘しておきたい。早川の提起を受け、上記の問題に迫る上での前提となると考えられるからである。
 第一に、歴史的評価が桓武個人の「政治的理念」の追求を以て下されており、支配層の全体的意思・歴史的特質による規定性・拘束性が無視されていることである。
 その原因は、桓武の歴史的評価の前提となる君主制の基本的認識が踏まえられていないことと考えられる。
 そもそも、君主は支配層を離れて自己運動することができない(石母田「第Ⅰ章」註(1)書、三六三頁)。君主とは支配層が「共同利害」を維持するために擁立した存在なのであり、いかに専制的であってもこの性格から逸脱することはできない。
 しかし、早川説ではこの基本的前提が無視されている。早川の既述の評価は天皇と貴族層との権力的な対抗関係の追究に基づいており、後者の前者に対する屈服の結果、桓武が「絶対的な権威と権力」を追求するに至るとされる。桓武朝における後者の前者に対する規定性・拘束性は、事実上、否定されている。
 しかし、既述の君主制の性格は権力闘争によって消滅する性格のものではなく、桓武が直面した課題も支配層の「共同利害」の維持であったはずである。彼の強大な権力はあくまでこの課題の克服のために存在するのであって、貴族を上層部とする支配層の全体的意思・歴史的特質による規定性・拘束性から逃れることはできない。
 この点は、彼自身の「政治的理念」・思惟もこのような規定性・拘束性の中に存在することをも意味する。
  まず、彼の「政治的理念」自体がこのような規定性・拘束性の中に存在する。
 このような「理念」は彼個人が抱いたものであったとしても、あくまで「共通利害」の維持という課題に対応するためのものであり、支配層の全体的意思・歴史的特質から離れて存在することはあり得ない。
 次に、彼の「政治的理念」を具現化するには政策化による「国家意思」への転化が必要である。したがって、その意義が支配層全体に一定度、共有されねばならない。
 桓武が権力闘争の次元において貴族層を圧倒していたとしても、このような手続きの必要性が否定されるわけではなく、その意味で前記のような規定性・拘束性の中にあるのである(そもそも、このような規定性・拘束性の中にあるからこそ、権力闘争において貴族層を圧倒する必要があるのである)。
 さらに、仮に「政治的理念」において彼個人が自らを中国皇帝に擬したとしても、彼の思惟全体は日本の支配層の歴史的特質に規定されていると見るべきであろう。
 実際、その天命思想は、「革命」を天武系から天智系への交替に限定していたとされており(早川B論文)、これは天孫神話をイデオロギー的根拠とする、日本独自の天皇制の在り方(したがって、天皇に神的・超越的権威を与える良人共同体の在り方)に規定されていたためと考えられる。彼の「中国皇帝」志向はー仮に存在したとしてもー基本的にはその主観的自己認識と見るべきであろう。
 早川論文や(1)佐藤論文によって天命思想の影響が指摘されているにもかかわらず、(3)仁藤論文が指摘するように「新王朝理念」とは整合しない措置が見られることは、このような規定性・拘束性の所産と考えられる。
 桓武の「政治的理念」のみに注目し、このような規定性・拘束性を無視することは、天皇に対する歴史的評価の手法としては問題があるとせざるを得ない。
 第二に、早川の想定それ自体が本稿の検討結果と整合しない。
 まず、(1)「中国的な、律令法のたてまえとする絶対的な権威と権力をあわせもつ皇帝」の追求という想定自体が成立し難い。
 早川の想定する「皇帝」とは、畿内政権の政治的首長から脱却した天皇の姿である。
 すなわち、早川説では桓武朝において律令法導入時に存在した唐とは異なる日本の独自の特質が消滅したとされているのであり、だからこそそれは「中国的」とも称される。畿内政権論自体が成立し難いのは既に指摘のある通りだが(伊藤循「国家形成史研究の軌跡ー日本古代国家論の現状と課題ー」〔『歴史評論』五四六、一九九五年〕、同「畿内政権論争の軌跡とそのゆくえ」〔『歴史評論』六九三、二〇〇八年〕など参照)、ここでは早川の、このような桓武朝についての見解が問題となる。
 結論から言えば、それは成立しないと言わざるを得ない。
 後述のように、第Ⅴ期(桓武朝)における「基本的政策課題」は「行政の『相対的独立化』」であったと考えられるが、「人格的身分的結合関係」・良人共同体の意義を、政策的にも国家の基本的体制の問題としても否定するものではなかった(本項「5.小結」の「『行政の『相対的独立化』』と(α)『人格的身分的結合関係』」及び第Ⅷ章参照)。
 唐とは異なる日本独自の特質である「人格的身分的結合関係」・良人共同体に規定された政策を追求し、国家体制を維持する天皇制の在り方は、いかなる意味でも「中国的」ではなく、したがって(早川が想定するような意味での)「絶対的な権威と権力をあわせもつ」天皇とも言えない。
 また、これと関連し(2)桓武と大宝・養老律令との関係の理解に問題を指摘できる。
 早川によれば、桓武は大宝・養老律令が理念とした天皇制の在り方を具現化しようとしたということにならざるを得ない。
 しかし、桓武朝(第Ⅴ期)の「基本的政策課題」である「行政の『相対的独立化』」はそのような性格のものとは認められない。この課題は、新たな天皇制の模索とも関わるものと見られるが、(最終的な歴史的評価は措くとしても)大宝・養老律令施行による成果を踏まえつつも、それによる地方行政機構の維持・運営の行き詰まりを踏まえ、新たな課題に対応するものと見られるのであって(本稿第Ⅷ章)、大宝・養老律令の理念の具現化とは評価できない。
 法典編纂の問題においても、桓武が命じたのは形式上は養老律令の「付属法」に過ぎない格・式の編纂であり、それは、既述の桓武朝の課題と対応するものと考えるべきであろう。
 早川によれば、大宝律令は天皇と貴族との「妥協の産物」(一六〇頁)に過ぎないとされており、養老律令もその「限界」を大きく払拭できたと想定されているわけではない。仮に早川のこのような大宝・養老律令の想定に従うとしても、桓武はその「限界」を克服した新たな律令の編纂を命じたわけではなく、「付属法」の編纂に大宝・養老律令の理念の具現化を見出すのは無理であろう。
 以上のように、早川説自体は成立し難いと言わざるを得ない。
 ただし、筆者は桓武の「政治的理念」の追究の意義を否定しているわけではない。
 後述のように光仁即位の政治的意義は、「人格的身分的結合関係」における「政治的可変性」の可能性を考える上でも重要である。光仁自身が自らの即位の意義をどのように認識していたかは、この問題を考える上で有力な検討素材の一つであり、その後を襲った桓武においても同様である。
 既述のような規定性・拘束性の中で桓武がどのような「政治的理念」を抱いたかは地方行政機構の維持・運営の歴史的展開を考える上でも重要と言って良く、また、その検討は早川が問題とした天皇制における「権威と権力」の変質の把握につながるものと考える。
*15)三月丙申詔(以下、「三月丙申詔」)。
*16)延暦一七年(七九八)四月甲寅条。なお、ここで「国造の兵衛」が停止された理由については、必ずしも審らかにはできない。
 まず、確認すべきは、「延暦一七年制」の目的である「譜第」郡司の再生産の阻止について、この措置は一定度も寄与はするが、その意義は限定的であることである。
 当然ながら、「国造」は「譜第」の系譜に属する。ここでの「国造」は当然、所謂「新国造」であるが系譜としては「旧国造」に連なっており、この「旧国造」は評制施行時に基本的に評造に任用されたと見られるので(大化元年〔六四五〕八月庚子条。拙稿G参照)、「新国造」は「難波朝庭以還譜第重大」「立郡以来譜第重大」に該当するからである。
 また、兵衛は郡司子弟から選抜されており郡司に任用される場合がある(軍防令37兵衛考満条・同38兵衛条・『延喜式』式部上149諸衛任官条など)。
 とすれば、「譜第」でもある「国造の兵衛」を停止することは、「譜第」郡司の再生産の阻止に寄与する。
 しかし、「国造」は「譜第」の一部に過ぎない。「譜第」は「大化前代」の在地首長層のみならず、七世紀後半以降に台頭した新興首長層なども含むからである。
 とすれば、「譜第」郡司の再生産の阻止という観点からは、「国造の兵衛」の停止は限定的な意義しか持たない。兵衛制からのかかる再生産を全面的に阻止しようと思えば、本来、「国造の兵衛」だけでなく、「譜第」の系譜に属する兵衛全てを停止しなければならず、抜本的には兵衛の郡司子弟からの選抜か、その郡司への任用を停止しなければならない。
 にもかかわらず、なぜ、「国造の兵衛」だけが停止の対象となるのかは不明とせざるを得ない。
 差し当たり、嫡々相継制によって廃止されていたと見られる、選叙令13郡司条の本註「それ大領・少領は才用同じならば、まず国造を取れ」との関連も想定されるが、「延暦一七年制」は直ちに本註部の規定の復活を示すものではなく、兵衛の停止という形ではなく、この本註規定の廃止を明示すればよい。
 以上から、この措置の意義については現在、不明とせざるを得ない。
*17)「延暦一九年(八〇〇)一二月四日太政官符」(『類聚三代格』巻七)。
*18)延暦一八年(七九九)五月庚午条。
*19)延暦一七年四月甲寅条(註(16)前掲)、延暦一八年五月庚午条(註(18)前掲)、「延暦一九年一二月四日太政官符」(註(17)前掲)、弘仁二年(八一一)二月己卯条・「同年同月二〇日詔」(『類聚三代格』巻七)。
*20)後世の儀式書に見える郡領の任用手続きの詳細な儀式次第については、森公章「試郡司・読奏・任郡司ノートー儀式書に見える郡司の任用方法ー」(『古代郡司制度の研究』吉川弘文館、二〇〇〇年。初出は一九九七年)・拙稿Cなど参照。
*21)以上、森公章「律令国家における郡司任用方法とその変遷」(註(20)書。初出は一九九六年)一四三頁。
*22)毛利憲一「郡領任用政策の歴史的展開」(『立命館文学』五八〇、二〇〇三年)一一頁。以下、毛利の見解は基本的に同論文による。
*23)毛利の(ア)・(イ)に関する説明は次の通りである。
 (ア)については、国司権限・郡領「私門」の抑制という課題に対し、桓武が〈新王朝〉観念を有していたため、「譜第之選」停止という従来の「王権との歴史的奉仕関係」を否定する措置が取られ、「改新」以来の一大「改革」と位置付けられたとする。
 (イ)についても、「芸業」は地方統治の現実との乖離をもたらす基準であり、そのような統治を担う実務能力ではないが、桓武の〈新王朝〉観念・「中国皇帝的徳治理念」によって設定されたとする(以上、一三頁)。
 この説明は成立し難いといわざるを得ない。
 まず(ア)について。
 前提として概念の問題について述べておく。毛利の「王権との歴史的奉仕関係」とは「労」に端的に示される、天皇への在地首長層の「祖」以来の奉仕(及びそれに対する「君恩」)の関係である。筆者はこの関係は「人格的身分的結合関係」の概念で把握すべきと考える(後述)ので、以下、この概念で統一する。
 また、以下の行論は後文及び本項「5.小結」の「『行政の『相対的独立化』』と(α)『人格的身分的結合関係』」・第Ⅷ章での分析を前提とする。
 さて、「譜第之選」停止は「人格的身分的結合関係」自体の否定ではない。否定されたのは「郡務」の直接の前提という位置付けに過ぎず、それ自体の意義が否定されたわけではないのである。
 そもそも「譜第」の在地首長層が、「立郡」以来の奉仕を根拠として郡領に任用されることも必ずしも否定されたわけではなかった。
 まず、「延暦一七年制」は「譜第」の在地首長層を郡領任用から排除するものではない。同制が否定したのは、郡領が「譜第」という特定系譜によって継承されていく(「相襲う」)ことー言い換えれば、郡領に任用される系譜が原則として特定・限定されていることーであって、「譜第」の任用自体が否定されているわけではない。
 一方、郡領任用手続きにおいて系譜(「祖」以来の奉仕・「労」)もチェックされていたと考えられる。「芸業」との関係に問題が残るものの、孝徳朝以来の奉仕を根拠として「譜第」の在地首長層が郡領に任用される余地も存在していたと考えられる。
 それ故、「延暦一七年制」は「天武系」を主とする従来の天皇に対する在地首長層の奉仕を否定するものではない。
 したがって、毛利の理解では、同制における「譜第之選」の停止が直ちに「改新」以来の一大「改革」とされた必然性を説明することはできない。
 次に(イ)について。
 これについては、桓武が〈新王朝〉・「中国皇帝的徳治理念」を有すると、なぜ郡領の任用基準が「芸業」とされるのかが説明されていない。
 あえて推測を巡らせば、学芸能力たる「芸業」においては中国典籍の素養が重要な位置を占めたと見られ、それに秀でた者を従来、在地首長層を任用してきた郡領に任用することにより、桓武が「中国的」国家を造り上げようとしたとの可能性が想定される。
 しかし、この想定は成立し難いであろう。
 第一に、任用に当たって「芸業」のような学芸能力が基準とされなかったのは、郡領だけではない。任用基準が具体化されないのは、日本律令制国家の官職任用一般の特徴であり(拙稿C参照)、本来、このような意味での「中国的」国家を造るのであれば全ての官職の任用基準制度に発動する方が自然であろう。
 第二に、郡領任用における措置を一つの手段として「中国的」国家を目指すのであれば、なぜ、在地首長層の任用が維持され、唐の県官のような中央派遣官にされなかったかが問題となる。もちろん、この批判に対しては、本来、このような方向性を目指したが、在地首長層の支配を否定できなかったとの反論が予想されるが、このような方向性の模索が実証されているわけではない。
 毛利は(ア)・(イ)を桓武の〈新王朝〉観念によって説明するが、註(14)で述べたように自己運動できない君主の「政治的理念」によって、措置の意義に関わる(ア)・(イ)を説明するのは頗る限界があると言わざるを得ない。君主の「政治的理念」の影響は否定しないが、既述のようにそれは支配層の全体的意思に規定・拘束されており、その意思は支配層の歴史的特質に規定されると考えられる。したがって、基本的には(ア)・(イ)もこのような特質との関連で説明されるべきであろう。
 そして、このような支配層・国家機構の歴史的特質を規定するのが「人格的身分的結合関係」であることは既述の通りである。したがって、この概念を欠いては、「延暦一七年制」の意義を把握することもできないと言える。「王権との歴史的奉仕関係」という概念は放棄し、「人格的身分的結合関係」を使用すべきである。
 他に「延暦一七年制」の意義を把握する上でも一つの前提となる大宝令の郡領任用基準制度の毛利の理解(「郡領の任用と『譜第』―大宝令制の構造と特質ー」〔『続日本紀研究』三三八、二〇〇二年〕)については、拙稿C参照のこと。
*24)「延暦一六年(七九七)一一月二七日太政官符」(『類聚三代格』巻七)。
*25)「延暦一七年(七九八)二月一五日太政官符」(『類聚三代格』巻七)
*26)「延暦一七年(七九八)三月二九日太政官符」(『類聚三代格』巻七)・同年一〇月丁亥条。
*27)「延暦一七年(七九八)三月二九日太政官符」・同年一〇月丁亥条(註(26)前掲)。
*28)「延暦一九年(八〇〇)一二月四日太政官符」(註(17)前掲)。
*29)「延暦一九年(八〇〇)一二月四日太政官符」(註(17)前掲)。
*30)また、「人格的身分的結合関係」のこのような位置は、唐の「才用」規定を継受せず、任用の直接の前提が位階の保持になる一般官人の場合も同様であり、同じく孝徳朝に成立したと認識されていた「公務」・国家機構一般の在り方の「改革」でもあった。
*31)毛利前掲論文。
*32)「延暦一九年(八〇〇)一二月四日太政官符」(註(17)前掲)。なお、唐選挙令は「才用」(「才能」)を審査するための基準(その具体的内容)を明確化している(大隅清陽「律令官人制と君臣関係ー王権の論理・官人の論理ー」〔『律令官制と礼秩序の研究』吉川弘文館、二〇一一年。初出は一九九六年〕など参照)。しかし、言うまでもなくそれは「才用」の語それ自体から導き出されるものではなく、唐の「貴族社会の価値観」(大隅論文、一四一頁)を媒介としたものである。
*33)弘仁二年(八一一)二月己卯条・「同年二月二〇日詔」(註(19)前掲)。
*34)このような認識においては、国内・郡内の情勢は必ずしも任用に当たって重要な要件とはならず、(bー2)のように、「本国」を経ず、式部省が独自に「簡試」する場合が認められると考えられる。
*35)『延暦交替式』の巻末奏上文には「庶(こいねが)わくは、諸国をして遵奉し以て失わ(せしめ)ず」とあり、交替政における国司の失錯を正すことが編纂目的の一つであったことが分かる。
*36)表1-№23。
*37)表1-№25。
*38)なお、国司制で触れた(ⅰ)~(ⅲ)の事例には郡司も関わると見られる。例えば、(ⅰ)の対応措置は「内外の官人」を対象とし、(ⅱ)は「国宰・郡司」の「怠慢」を問題とし、(ⅲ)は「国司以下」の「犯」が問題とされる。しかし、基本的に問題とされているのは国司と見るべきであろう。
*39)四月壬寅条。
*40)梅村喬「公廨稲制と補填法の展開ー専当人補填から共填へー」(『日本古代財制組織の研究』吉川弘文館、一九八九年)一〇二頁など参照。
*41)なお、「訪察」の語は第Ⅴ期の事例では表1-№26の観察使の評定基準(「大同四年(八〇九)九月二七日太政官符」〔『類聚三代格』巻七〕)に見える。
*42)観察使については福井前掲書、大塚徳郎「平城朝の政治」(『平安初期政治史研究』吉川弘文館、一九六九年。初出は一九六二年)、笠井純一「観察使に関する一考察」(『続日本紀研究』一九四・一九五、一九七七・七八年)、春名宏昭『平城天皇』(吉川弘文館、二〇〇九年)など参照。
*43)延暦五年(七八六)四月庚午条(前掲)・「同年同月一九日太政官奏」(『類聚三代格』巻七)。
*44)「大同四年(八〇九)九月二七日太政官符」(註(41)前掲)。
*45)なお、昇進については、五位以上の対象者については、事を量った上での「進階」、六位以下の対象者については、「不次に擢でて」五位を賜与するとされる。
*46)詳しくは記さないが、改訂の重要なポイントは例えば冒頭で「撫育に方ありて戸口増益す」「農桑を勧課し倉庫を積実す」について、増減の「分数」などが定められているように、進階・擢授及び解任の基準を精緻化することにあると見られる。
*47)福井前掲書、一三〇頁以下参照。
*48)なお、拙稿Eでは令制の「試練」の筆記試験について、(1)在地首長層の郡領としての適性評価機能を疑問視し、(2)その意義を在地首長層もディスポティシズムの原理に編成されていることを象徴的に示す点に求めた。今のところ、令制の筆記試験についてはこの見解に修正の必要は感じていない。
 しかし、毛利前掲論文によれば「延暦一七年制」によってこのような「試練」・筆記試験の性格に変化が生じていた可能性を指摘できる。
 すなわち、毛利は同制により「式部省で(「芸業」的)「才用」を審査する階梯はこの時初めて組み込まれた」(一二頁)とする。後述のように、毛利は在地首長層が郡領任用に当たって「甲」(甲・乙・丙などの筆記試験の成績)を競ったと認識しているので、同制においては、筆記試験によって郡領としての適性が評価されたと想定していると考えられる。
 「試練」が法制上、「才用」を審査する場と位置付けられている以上、「芸業」が「試練」・筆記試験で審査される形になるのは当然と言える。
 拙稿Eとの関わりで問題になるのは、それが実質的に在地首長層の適性評価機能を有しているかという点である。
 毛利の指摘の中で、このような評価機能の存在の根拠となるのは前述の在地首長層が筆記試験の成績を競ったとの理解である。これは、弘仁三年(八一二)六月壬子条に、郡領任用につき在地首長層が「第を争い甲を競う」とあるとの認識に基づく。
 しかし、この認識は成立しない。
 該当部分は和学講談所(塙保己一)板行の版本(「塙板本」)を底本とした訳注日本史料本には確かに「第を争い甲を競う」とある。しかし、同本の校異註により三条西家旧蔵本(「三本」)は「第を争い、相競う」とあり、「甲」の字は存在しないことが知られる(六一四頁)。一方、該当部を収載した「同年八月五日太政官符」(『類聚三代格』巻七)には「三本」同様「第を争い、相競う」とあり、新訂増補国史大系本の校異註による限り、写本間の異同は確認されない。『後紀』においても「三本」が「塙板本」の祖本と見られることからも(齋藤融「残存巻について」〔訳注日本史料本〕参照)、現在、把握できる該当部の文字の異同に関する知見の限りでは「第を争い、相競う」が本来の記述であった可能性が高い。
 とすれば、現在のところ、在地首長層が「甲」(筆記試験の成績)を競ったという理解は成立しない。一方、「第を争い」についても該当部が前年の「譜第之選」復活を受けた記述である以上、「譜第」の意と取るべきであり、「譜第の優劣」(「第Ⅴ章」註(2)前掲天平勝宝元年二月壬戌条)を競ったと理解すべきであろう(森註(21)論文)。
 したがって、毛利の指摘の限りではこのような評価機能については確認できないことになる。
 しかし、以下の根拠によってこのような評価機能が存在した可能性を指摘できる。
 すなわち、大宰府が郡領の「才能を歴試」した結果、「未だその人を得ず」という状況に陥ったことが確認できることである(註(17)前掲「延暦一九年〔八〇〇〕一二月四日太政官符」)。
 この史料は前述の「条目」の存在を示すものであるが、ここでの「歴試」は毛利が指摘するように西海道における「試練」であり、筆記試験によるものと考えられる(毛利論文一二頁。ただし「未だその人を得ず」の部分については言及がない)。その結果、「未だその人を得ず」(郡領としての適任者を得られない)状況になったとすれば、筆記試験が適性評価機能を備えていたことになる。
 すなわち、結論的には毛利の想定は支持し得る可能性がある。
 とすれば、(1)はもちろんのこと、ディスポティシズムの原理も単に「象徴」的に示すに留まらないので、(2)も変化することになる。また、これは、「試練」の基本的意義が「意識の内部の支配」の基本的手段に留まらなくなったことをも示している。
 今後、なお検討したいとは思うが、差し当たり第Ⅴ期に「試練」の性格・意義に変化があった可能性があることを指摘しておきたい。
*49)「一一月二七日太政官符」(註(24)前掲)。
*50)「二月二六日太政官符」(『類聚三代格』巻七)。
*51)早川庄八「選叙令・選任令と郡領の『試練』」(「第Ⅰ章」註(7)書。初出は一九八四年)。なお、拙稿Eも参照。
*52)「延暦一六年(七九七)一一月二七日太政官符」(註(24)前掲)。
*53)大町健「「畿内郡領と式部省『試練』」(『日本歴史』四六六、一九八七年)・拙稿E参照。
*54)延暦一八年(七九九)四月壬寅条(註(39)前掲)。
*55)天平宝字元年(七五七)正月甲寅条(「第Ⅴ章」註(9)前掲)。
*56)郡司制においては「意識の内部の支配」の強化措置として積極的意義を有するのは昇進に過ぎないが、対応措置が見られるのは確かである。
*57)福井前掲書、二六四頁。註(42)前掲論文・文献参照。
*58)弘仁元年(八一〇)六月丙申条。
*59)福井前掲書、一三三頁。
*60)「弘仁八年正月二四日太政官符」「天長二年閏七月二六日太政官符」(いずれも、『類聚三代格』巻七)。
*61)米田「第Ⅴ章」註(35)書など参照。
*62)なお「出挙公廨制」については、「延暦五年(七八六)六月一日格」(「延暦二二年二月二〇日太政官符」〔『延暦交替式』〕所引)における前後司間の、「延暦一二年(七九二)二月一五日格」(「貞観八年三月七日太政官符」〔『類聚三代格』巻六〕)における和泉国などの守と掾の、「公廨」の配分率を規定する措置などが見える。
*63)二月壬申是日条。なお、職分田は史料上では「職田」。
*64)正月甲辰条。なお、職分田は史料上は「公廨田」。
*65)同月乙酉条。
*66)八月丁亥条(なお、職分田は史料上は「公廨田」)・九月丁酉条。
*67)「大同三年(八〇八)二月五日太政官符」(『三代格』巻六)。なお、同官符では同年に、「国司俸」の停止に伴い、事力とともに「公廨」((D)-(b))が復活したことになっている。したがって、前年の八〇〇年に職分田・「公廨」とともに事力の復活(及び「国司俸」の停止)が宣言され、八〇一年に至って実施されたということかもしれない。
*68)二月乙丑条。
*69)薗田「第Ⅲ章」註(31)論文七九~八〇頁、山本「第Ⅲ章」註(28)論文一二頁などに言及はあるが、十分に検討されているとは言えない。
*70)「二月五日太政官符」。なお、事力の支給は「天長二年(八二五)閏七月二二日太政官符」により復活(ともに『類聚三代格』巻六)。
*71)そもそも、本稿の「規律」の概念は古代における「罪」「犯」などの概念に必ずしも即しているわけではなく、その認定に限界があることは後述する通りである。
*72)№107の「免官」を(ウ)「解任」と見れば五例、名例律19の発動と見れば六例となる。
*73)吉田A論文。
*74)長山「第Ⅱ章」註(29)論文参照(長山の指摘については同註で関説)。
*75)「一般的表現」の一年あたりの発動頻度は〇.八六~〇.八九になる。表2-Bから第Ⅴ期が最高値であることは明らかと考えられるので、第Ⅰ~Ⅳ期との比較は省略する。
*76)№119の規律発動を『貞観』に従えば一八例、『後紀』に従えば一九例となる。
*77)違勅罪同様、№119の規律発動を『後紀』に従えば一二例、『貞観』に従えば一三例となる。
*78)福井前掲書など。
*79)註(72)で触れた№107の「免官」を、名例律19の発動と見れば一五例、(ウ)「解任」の発動と見れば一六例になる。
*80)吉川真司「律令官僚制の基本構造」(「第Ⅱ章」註(41)書。一九八九年)。ただし、禄を位階と同様の「基本的紐帯」と看做すことはできないことについては、拙稿B参照。
*81)前述の推定のようにそれが財政問題の一環であるとすれば、財政さらにそれを基盤とした職務執行が「人格的身分的結合関係」の秩序から「独立化」していく傾向を示す。
*82)(あ)七八一年(天応元)の詔における「貶降」「顕官の賜与」の宣言・(い)七八六年(延暦五)の「条例」など。
*83)註(19)前掲。
*84)ただし、良人共同体における「人格的身分的結合関係」の「基本的紐帯」である姓の秩序については、『新撰姓氏録』が編纂されたが未完に終わった。なお、長谷部将司「氏族秩序としての『勅撰』漢詩集」(『国史学』一九一、二〇〇七年)、仁藤註(14)論文などに検討がある。
*85)弘仁期以降、本格的に導入される「唐風文化」については君臣関係の維持・強化の側面があり、このような弱点・課題の克服であった可能性がある。「唐風文化」の概況については差し当たり、笹山晴生「唐風文化と国風文化」(『岩波講座日本通史 五』岩波書店、一九九五年)、「唐風文化」と君臣関係の関連などについては長谷部註(84)論文など参照。. 論文博士 氏名 論文名 授与年月日 種類; 長津,美代子: Nagatsu,Miyoko: 中年期における夫婦関係の研究-個人化・個別化.  次の【6】は、「第三国人」に相当する”Third Nationals”という英語表現を確認できる、唯一の使用例である。
 

【6】 Kyoto Military Government Team Apo 713 (Kyoto Honshu) 
Press Release: No. 2.「意識の内部の支配」

(1)第Ⅳ期における「意識の内部の支配」の動揺

 まず、第Ⅲ期における「意識の内部の支配」の動揺の激化が、第Ⅳ期に入っていかに展開したかを確認する。

・国司制

 表1によれば、第Ⅳ期の「中央派遣使」の活動において、国司(郡司も)の経済的利益の追求を糾弾した事例は見られない。
 しかし、この時期の「中央派遣使」は二例、確認できるに過ぎない。しかも、一例は「検税使」であり(№22)、国政全般の監察を目的としたものは一例である(№21)。第Ⅳ期が一一年間に過ぎないことを考慮しても、第Ⅲ期以前に比べれば、その派遣頻度は少ないと言わざるを得ない。この問題は、「中央派遣使」の基本的特質と関わるが、後述する。
 さしあたり、ここでは表1に国郡司の経済的利益の追求を糾弾した事例が見られないからと言って、かかる追求、それによる「意識の内部の支配」の動揺の激化が沈静化したと考えることはできないことを確認したい。
 表2-A・Bに収載した事例にかかる追求の問題視が見えること*3)を考慮すれば、問題自体は継続していると考えるべきであろう。

・郡司制

 郡司制については、引き続き神火事件が問題とされ、(ア)七七三年(宝亀四)には、正倉の火災が、神火ではなく、郡司及び郡司に任用されない「譜第」を主体とする在地首長層による放火であること*4)、(イ)七七九年(宝亀一〇)にはそれが「郡任を奪う」ためのものであること*5)、が明示されるようになった。
 郡司・在地首長層の「意識の内部の支配」の動揺が依然、深刻であることが分かる。

(2)国司制における対応措置

 国司制における対応措置は、表2-Aー№66の、雑米未進に対し、国司主典以上の考を落とす措置が管見に入った唯一の動きである。

(3)郡司制における対応措置

 郡司制の「意識の内部の支配」自体の措置としては、(ⅰ)表2-Aー№66の雑米の未進に対し、郡司主帳以上の考を落とす措置(国司と同一事例)、(ⅱ)七七二年(宝亀三)の、第Ⅲ期に制定された嫡子出身制の廃止措置*6)が確認される。この内、(ⅱ)の嫡子出身制には前述の意義があり、その廃止は「意識の内部の支配」を弱体化させる側面は否定し難いと考えられる。
 すなわち、「意識の内部の支配」の強化措置と見られるのは、(ⅰ)のみである*7)。
 
(4)まとめー「意識の内部の支配」の政策的位置と措置の有効性ー. を指摘できる。

・(イ)「欠失補填」

 表1、表2-A・Bでは、(イ)「欠失補填」の発動事例が見えないが*45)、これについては前述の通りである。
 むしろ、第Ⅲ期には(イ)「欠失補填」がかなり積極的に発動されたものと見られる。
 この点を端的に示すのは、表1の№20の巡察使である。
 この巡察使は「交替の訴を判断」することを基本任務の一つとしているが、このような「訴」は、当然ながら(イ)「欠失補填」の一定度以上の発動を背景にしたものであろう。
 発動の前提となる制度的整備も、主に七五〇年代に見られ、支配層による(イ)「欠失補填」の重視を示している*46)。. English Transcription | Englisch Korrektur | Revisão de Inglês | Tradução de Artigos | 論文翻訳 | 論文翻譯 | 英文編修 | 日英翻訳 | 英文校閲 | 영문교정 | 영문교정 | 영문교정 | 英文校正・翻訳サービス
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 (ⅰ)において、規律の位置付けの低下が見えるが、あくまで前述のような「中央派遣使」の監察の問題によると考えるべきであろう。
 (ⅱ)を見れば、第Ⅲ期に入り規律の政策的位置は上昇していると考えられる。これは、近年指摘されている、養老律令施行と単行法令の発令・集成との深い連関*48)とも整合する状況と考えられる。
 また、(ⅲ)・(ⅳ)・(ⅴ)は、その規律の在り方に変化が生じたことを示している。
 従来、重視されてきた(ア)律の規定の位置付けは、一層、低下するが一定の位置は占めている((ⅲ))。律令法の一部として編纂されているという、他の規律との相違を考えれば、諸規律の中で独自の位置を占めたと考えられる。
 一方、違勅罪が発動されるようになり((ⅳ))、(イ)「欠失補填」~(エ)経済的特権の剥奪の位置付けが上昇する((ⅴ))。
 これは第Ⅲ期に入って、規律が新たな展開を示したことを示しているが、(ⅱ)に見えるその政策的位置の上昇に対応するものと見てよいであろう。
 以上から、第Ⅲ期の規律の特徴・在り方について. であろう。言い換えれば、国司の「国庫への直接的な依存」(三五三頁)の傾向が著しく強化されたと言える。
 言うまでもなく、それは経済的利益獲得の上での「出挙公廨制」の意義の大きさによる。
 その施行後一〇年余にして早くも現れた「諸国司ら、交替の日、おのおの公廨を貪る」*4)との状況は、その意義を端的に示している。
 しかし、何よりその意義の大きさを端的に示すのは、「出挙公廨制」の廃止措置*5)や、そこでの国司の得分の削減措置*6)が、いずれも短期間に撤回に追い込まれていることであろう。これは、その継続の強行が支配層の分裂・国家機構の破綻を招きかねないことを示している。言い換えれば、もはや、それなしには支配層の結集・国家機構の維持が困難になりつつあるのである。
 平安期には、国司に対して、「出挙公廨制」における得分の配分率による「六分官」(守)・「四分官」(介)といった呼称が生まれることが指摘されている*7)。これは、国司制と「出挙公廨制」、そして地方行政機構と物的給与制度(経済)とが不可分の一体化をなしたことを示している。その端緒は、八世紀後半には成立していたと考えるべきであろう*8)。
 もちろん、「出挙公廨制」はかかる分離を基本的目的とした措置ではないので、律令法の(A)職分田~(D)位田の給与制度は基本的に存続した。しかし、経済的利益獲得の上でのその意義は著しく低下したと考えられる。
 国司の経済的生活が直接生産過程から分離する傾向及びその進行は認めてよいであろう。. 5  撰寫一則討論 /  結論
第五章 摘要的撰寫
5.  本稿の手法において基本的前提となるのは(α)~(γ)の在り方・特徴の把握であるが、これらは、いずれも本来は石母田正が提示した*4)概念である。
 従って、本稿の手法は基本的には、石母田正が「古代官僚制」で提示した各論点*5)に従って、国郡司制を分析し、(Ⅰ)・(Ⅱ)を把握することに他ならない。
 研究の現段階においては、石母田説が「理論」としての位置を占めると考えられる以上*6)、この手法の採用は当然である。むしろ、「古代官僚制」発表後、四〇年近くを経るにもかかわらず、かかる分析が行われていないことー換言すれば、「一つの序論」(三四一頁)とされた「古代官僚制」にそのような役割さえ与えてこなかったことーは、「石母田以後」の学説の「事実と理論の緊張関係」の欠如を物語っている。問題とされるのは、こちらの方であろう*7)。

2.概念の基本的内容・意義

 以下、(α)~(γ)の各概念の、本稿における基本的内容・意義を述べる。

(1)(α)「人格的身分的結合関係」

 「人格的身分的結合関係」とは、言うまでもなく、天皇と良民・官人との「君恩」と奉仕の関係を指す*8)。かかる関係が、律令制国家の国家機構の基本的特質を規定することについては、拙稿Aで述べた*9)。
 本稿で、基本的な分析対象とするのは. 25 July 1646[ママ] 1. 図書館hp > 検索 > 学位授与者名簿(課程修了によるもの) / 学位授与者名簿(論文提出によるもの) 1989~1999年(甲1~242号) / 2000. 3  寫作任務 :  建構一個模式
3.

を把握することである。
 この課題は、本質的には「権限配分に関する意識的・計画的原則」(以下、「原則」*1))に基づく権力組織が、この列島の地方の場において唐からいかに継受され、展開していくかを把握することに他ならない。
 なお、本来、この課題に対応するには平安期まで含めた分析が必要だが、作業が膨大になったため、今回は八世紀を主とする分析に留めた。
 関連する研究は枚挙にいとまがないが、同じ理由で言及は最小限に留めた。ご了承願いたい。
 また、正史の引用については煩瑣を避けるため、基本的に出典を省略の上、条文名のみを示し*2)、史料の年次があらかじめ示されている場合には原則としてこれも省略することにした。
 また、律令制国家の地方行政機構には大宰府なども含まれるが、本稿では国・郡を主たる検討対象とし、後述の手法から国郡司制の分析を通して上述の課題に接近することにする。

(2)本稿の手法

 本稿で、この課題に対応するための手法は、国郡司制における. 人間文化研究科 課程博士の表へ; 人間文化創成科学研究科 課程博士の表へ; 人間文化研究科 論文博士(乙第1~249号)の表へ. Author will not compensate you in any way whatsoever if you ever happen to suffer a loss/inconvenience/damage because of/while making use of information in this blog. 〔Ⅶ. 律令制的地方行政機構の展開(5)-七八一~八〇九年(天応~大同期)までー〕

 ここでは、第Ⅳ期の地方行政機構の展開について検討するが、まず、律令制国家の基本的特質を規定すると考えられる良人共同体・「人格的身分的結合関係」の秩序維持の政策的位置について、概況を把握することにする。

1.良人共同体・「人格的身分的結合関係」の秩序維持の、政策的位置の低下

 第Ⅴ期の特徴は、良人共同体における「人格的身分的結合関係」の秩序を維持するという課題の政策的位置が、低下していることである。
 この点を端的に示すのは、七八九年(延暦八)に発令された良賎通婚の結果、生まれた子どもを良民とする措置*1)である。
 事実上の良賎通婚禁止の廃止であるこの措置は、良賎制とそれを前提とする良人共同体の「人格的身分的結合関係」の秩序維持の根幹に関わる措置であった*2)。「氏族之胤」「公民」が「賤隷」「奴婢」となることを防ぐために取られたこの措置では、賎身分が存在して初めて存在し得るという良民身分の本来の特徴はもはや踏まえられていない。
 当然ながら良人共同体の秩序維持という課題認識も希薄になっている。
 同様の状況は、天皇と良民との「人格的身分的結合関係」の媒介でもある班田制の遅延にも見ることができる*3)。
 (1)第Ⅴ期に入っての最初の班田は、六年一班の原則からすれば七八五年(延暦四)であったが、一年、遅延して七八六年(延暦五)の実施となり*4)、(2)次の七九二年(延暦一一)の班田に当たっては、京畿の女子・奴婢の口分田班給が減額・停止された上*5)、班田も翌年の七月まで持ちこされ*6)、(3)次の七九八年(延暦一七年)の班田は二年間遅延し、八〇〇年(延暦一九年)に実施された*7)。(3)は班年と籍年が一致するという異常事態であったため、翌年に「校班、煩い多し」*8)という理由で一紀一班制が取られ、以後、第Ⅴ期には班田が行われることはなかった*9)。
 (1)については、畿内校田使の設置という積極的理由も想定されており*10)、必ずしも全てが班田の政策的位置の低下を示すわけではないが、口分田の班給による天皇と良民との「人格的身分的結合関係」の成立が滞っていく傾向は見出せる。
 とりわけ(3)による問題の克服であった一紀一班制は、このような関係の成立よりは「煩い」の除去を優先させるものである。そもそも一紀一班制では、一二年ごとに班田を行うことになるので、本来、籍年と班年の一致という問題は克服できない*11)。もちろん、一〇年後の八一〇年(弘仁元)に班田が行われた*12)ことで、班年と籍年の一致という問題は解消されたが、そうであれば「一〇年一班制」とも言うべき措置が取られるべきである。「一紀一班制」という措置自体は杜撰というよりなく、班田の円滑な施行の政策的位置の低下を示すものと考えられる*13)。
 前述の良賎通婚の結果、生まれた子どもを良民とする措置をもあわせて考えれば、良人共同体・「人格的身分的結合関係」の秩序維持という課題の、政策的位置付けが低下しているのは明らかと考えられる。
 同時に、それは賎身分同様、姓を持たず、その対極として超越的神的権威を有する、良人共同体の首長としての天皇制の変質を余儀なくするものであった。必然的に桓武は新たな天皇制の在り方を模索するようになる。ただし、桓武が良人共同体及びその首長としての天皇制の在り方を明確に否定したわけではないことは、遅延されているとはいえ班田制が実施されていることや、その他の施策などから指摘できる*14). 本店售價:395 註冊用戶:395: 用戶評價: comment rank 5; 購買  .  なお、前述の「一般的表現」については、七例を確認できる。

・(ア)律の規定

 まず、表1について。
 前述のように「中央派遣使」の活動において規律の発動が命じられた事例が二例見えるが、それらは(ア)律の規定かそれを主体とするものと考えられる。
 まず、№9は流罪・除名が発動されており、当然(ア)律の規定の発動である。
 また、№15は「法により科罪せよ」と「一般的表現」が取られているが、国内行政全般が対象となることから、(ア)律の規定を少なくとも主体にしていると考えられる。
 後述の(イ)「欠失補填」~(エ)経済的特権の剥奪の状況を考えれば. ことは認めてよいと考える。
 ただし、前記のように、このような(ア)身分制的差別の措置は、あくまでディスポティシズムの原理・(イ)同質性の枠内に留まるものである。

2.「意識の内部の支配」

 第Ⅱ期に入り、国郡司に対する「意識の内部の支配」の動揺が確認されるようになる。
 すなわち、(ア)七三五年(天平七)には、国司について「条章を遵い奉るは、僅かに一両人のみあり。而も或る人は虚事を以て声誉を求め、或る人は公家に背きて私業に向かえり。」という状況*18)、(イ)七四四年(天平一六)に、国郡司について「諸の国郡官人ら法令を行わずして、空しく巻中に置けり。憲章を畏るることなく、ほしいままに利潤を求む。」*19)といった状況が、それぞれ批判されている。傍線部に示されるように、とりわけ経済的利益の追求が問題となっている。
 このような動揺は単に国郡司制のみの問題ではなく、官人全体に及んでおり、その克服はこの時期の国家機構維持のための課題であった*20)。
 以下、国郡司制それぞれについて、このような課題に対する「意識の内部の支配」における対応措置を検討したい。

(1)国司制における措置

 国司制については、対応措置は基本的に第Ⅰ期と同様と考えられる。すなわち、(A)昇進について(a)考選制度によるものと(b)「中央派遣使」の「訪察」によるものとがあり、他に(B)褒賞が確認される。

・(A)-(a)考選制度

 (a)考選制度については、七三五年(天平七)に、考課の厳格化が宣告されている*21)。これは、前記の(ア)の事態への対応措置で、「勤恪して法を奉る者は褒賞し、懈怠りて状無き者は貶黜せむ」ことが、朝集使に対して宣言されている。
 ただし、五位以上への成選叙位の内、「加階」(国司制における、従五位下→従五位上が該当)は、前述のように第Ⅱ期には行われなくなったと考えられる。これは、「大夫」の地位の獲得後の昇進を、あらかじめ計算の下、果たすことが出来なくなったことを示している。

・(A)-(b)「中央派遣使」の「訪察」

 (b)「中央派遣使」の「訪察」は、(ⅰ)七四四年(天平一六)の巡察使のそれが確認され(表1ー№15)、また、時期は前後するが、(ⅱ)七二七年(神亀四)の「使」の報告による「進階」「破選」もこれに准ずるものと見ることができる(表1ー№9)。
 (ⅰ)は、前記の(イ)の事態への対応措置で、(あ)三二カ条の基準によって、四考が終わるごとに「訪察」して、結果を奏聞する、(い)それに従い、国郡司を「黜陟」する、の二点が定められている。(ⅱ)の「使」も、国司の「勤怠」を巡監することを任務としたものであり、その派遣も「意識の内部の支配」の強化のためと見られる*22)。
 (b)「中央派遣使」の「訪察」の意義が、勤務評定の「客観性」の確保にあることは、第Ⅰ期の按察使と同様と考えてよいであろう*23)。また、(1)按察使が地域的な限定があったのに対し、全国郡司を対象としている点、(2)(ⅰ)において「訪察」基準が詳細化されている点は、このような「客観性」の強化を意図したものと考えられる。
 しかし、按察使が常駐官であるのに対し、巡察使・「使」は臨時官であり、(ⅰ)の巡察使の場合もその「訪察」が四年に一度であったことは、その機能の弱さとすることができる。

・(B)褒賞

 (B)褒賞については、七三九年(天平一一)に、巡察使の監察に基づく出雲守石川年足に対するものが確認される(表1ー№13)。しかし、僅か一例にすぎず、以後、見られなくなることからも、「中央派遣使」の監察におけるその意義は失われつつあると考えられる。

(2)郡司制における措置

 郡司制における「意識の内部の支配」の手段としては、(A)「試練」、(B)昇進が確認される。
 なお、第Ⅰ期にみられた続労(第Ⅰ期ー(B))、褒賞(同ー(D))に相当するような個別的措置は見られない。

・(A)「試練」

 (A)「試練」については、特に動きはみらない。七四八年(天平二〇)には、孝徳朝を起点とする「譜第」の系譜が語られるようになっていたことが、「他田日奉部直神護解」*24)から確認される程度である。

・(B)昇進

 (B)昇進については、前記の内外階制の発動が指摘できる。しかし、郡司は基本的に被差別者の立場に置かれており、郡司制の「意識の内部の支配」に関して言えば、それを弱体化する措置と言える。

(3)まとめー「意識の内部の支配」の政策的位置と措置の有効性ー. 書名:英文研究論文寫作-文法指引,原文名稱:Grammar for the Writing of English Research Papers,語言:繁體中文,ISBN:9575323181. 3.本稿の課題・手法の研究史的意義

 本稿の課題・手法の研究史的意義は、次の通りである*25)。
 第一に、「組織された強力」としての律令制国家・古代国家の特性・特徴に、その展開論の立場から知見を提示することである。
 古代国家のかかる特性・特徴に関する知見の提示が、かつて無い重要な社会的意義を有していることは、拙稿Dで述べた。
 研究史的意義としては、古代国家の展開論の立場から、このような提示を行う点が重要である。
 従来、古代国家論においては、国家成立論の意義が国家の一般的性質・機能(「本質」)の問題に直ちにつながるとして、強調されてきた*26)。
 しかしながら、この列島上における「日本」という国家は、九〇年代後半から、自殺者が一四年連続で三万人を超え、二〇一二年も二万七千人を超えるとされる。「うつ」に苦しむ人に至っては一〇〇万人を超えると言われる。
 加えて、東日本大震災・原発事故により多くの被災者が生まれ、さらなる苦難を課せられている。特に、国家的事業として推進されてきた後者の原発事故は、現在及び未来における影響の具体的内容・規模が不明である点で未曾有の大災害であり、世界及び未来に対する責任を我々に突き付けることとなった*27)。
 なぜ、国家がこのような基本的人権の圧殺を行い得るのかは、現在、あらためて問題とならざるを得ないであろう。
 この際、重要なのは、この国家は、あの敗戦によっていったん壊滅し、六〇年代末~七〇年代初頭においては、「怪物」とは言え「手負い」*28)とも見られていたことである。
 前記のような国家による基本的人権の圧殺の問題は、二一世紀初頭の今日においては、「このような四〇~七〇年代の状況にもかかわらず、なぜ、国家がかかる力を有するか」という問題にならざるを得ない。
 とすれば、、国家成立論が提起した「本質」論を踏まえつつも、古代国家の展開論の立場から独自の知見を提示することの意義は昔日の比ではないであろう。
 しかし、主に八〇年代後半から蓄積された古代国家の展開に関する研究は、「事実と理論の緊張関係」を欠いており、このような提示に堪える内容を持たなかった。
 本稿の分析はこのような古代国家論の問題を克服する意義があると考える。
 第二は、「人格的身分的結合関係」の在り方について、一定の知見を提供することである。
 このような知見の提供は、分析対象に「人格的身分的結合関係」を含む以上、当然ではある。
 しかし、多大な成果を挙げつつも問題点として指摘されてきた「首長制」概念の曖昧さ*29)を克服し、律令制国家またその基盤となる共同体・在地社会の歴史的特質を把握する上でも有益と考える。
 なお、当然ながら、この知見は専制・貴族制といった律令制国家の類型的特質の把握についての知見の提示にもつながる。この点も、「人格的身分的結合関係」の前記の特徴である(ア)身分制的差別・(イ)同質性が、かかる特質の表出である以上、当然である。
 第三に、明治期以降に形成され、戦後に至るまで典型的な「古代国家像」として受け入れられてきた、近代国民国家の表象としての「中央集権国家」像の克服に寄与することである*30)。
 このような「中央集権国家」像の特徴の一つは「単一的支配」*31)が徹底しているという認識が大きな位置を占めることであろう。
 例えば、かかる歴史像の先駆の一つとも言える嵯峨正作『日本史綱』*32)(一八八八年)は、孝徳朝以降の基本的特質を「中央政府ノ統制権モ全国ニ及ビ」という点に求めており、これは、律令制国家を「巨大なオートメーションの機械」*33)に例える見解が端的に示すように、戦後にまで継承された。
 そして、この認識においては、(1)生産諸条件の問題、(2)規律の機能の問題が大きな位置を占める。
 (1)については「公地公民」を「私地私民の廃止」とする、現在でも通俗的となっている見解に明らかである。
 (2)についても前述の『日本史綱』は「成文律モ起コリ」と律令制国家における律の制定を特記しており、律令制の特徴を「清新な形式」とともに「整然とした秩序」に求める見解*34)も規律が一定度機能しているという前提に立つものと考えられる。
 本稿で検討する直接生産過程からの分離の問題は、徹底した形では「所有の形態を変える」*35)ものであり、ー直接、生産諸条件を論じるものではないがー(1)を考える上でも重要である。
 (2)は本稿の直接の検討素材である。
 特に、この「中央集権国家」「単一的支配」の衰退は、「私地」たる荘園の発生・「地方支配の乱れ」との認識が端的に示すように、地方において始まるとされていることを考える時、地方の場においてこの二点を素材に律令制国家における「単一的支配」の在り方を把握することは、近代国家の表象としての歴史像の弊害が指摘されている今日、重要な意義を有すると考える*36)。.  前半期に維持・運営における根幹としての位置を占めた(β)「意識の内部の支配」は、律令制国家においては(α)「人格的身分的結合関係」と不可分であった。
 この点は、(β)「意識の内部の支配」の基本的媒介である位階・系譜が、同時に(α)「人格的身分的結合関係」における「基本的紐帯」であることからも明らかである*1)。
 そういう意味では(β)「意識の内部の支配」は(α)「人格的身分的結合関係」から分離されておらず、後者を基軸とする維持・運営がなされていたと考えられる。
 しかし、後半期に維持・運営の主力となる規律は、(α)「人格的身分的結合関係」に規定されつつもそこから分離されており、その意味で「非人格的」統治装置であったと考えられる。
 規律とは、五位以上の「大夫」であっても初位の下級官人でも、発動されれば服従しなければならない性格のものである。官人個々人と天皇との間の(α)「人格的身分的結合関係」の在り方と規律の発動・適用は直接には連動しない。
 もとより、(α)「人格的身分的結合関係」による規定性はあるが、律令制国家においても本質的にはそこから分離されていると見るべきであろう*2)。.

を指摘できる。

・(イ)「欠失補填」

 表2-A・B・Cによれば、(イ)「欠失補填」については、第Ⅴ期に一二~一三の事例を確認できる*77)。これは(ア)律の規定・違勅罪~(エ)経済的特権の剥奪の中では、違勅罪・(ウ)「解任」に次ぐ三番目に高い数値となっている。
 一方、第Ⅳ期には准ずる例が一例確認できるだけで、基本的には発動数は〇である。
 (イ)「欠失補填」については無意味なので発動頻度の析出は省略するが、第Ⅴ期における発動数・頻度の著しい増大は明らかである。
 本来、(イ)「欠失補填」は表2-A・B・Cには収載されにくい規律であったが、にもかかわらず発動数・頻度が著しく増大したのは、従来、発動されなかった「官物の犯用」(№87)、「正倉の焼失」(№92)などに発動範囲が拡大されたからである。これは前項の直接生産過程からの分離とも関わる国府財政の維持・再建の重視を示している。
 同時に、それは(イ)「欠失補填」の法的整備の進行でもあり、これが『延暦交替式』の編纂と八〇三年(延暦二二)の施行につながることは周知の通りである。
 また、(イ)「欠失補填」の前提となる交替制度についても、七九七年(延暦一六)頃の勘解由使設置、八〇〇年(延暦一九)頃の付与解由状の成立など、整備が大きく進行したことが既に指摘されている*78)。
 以上のように、第Ⅴ期の国府財政の維持・再建重視により(イ)「欠失補填」の位置が非常に上昇していることを指摘できる。.  「第三国人」という語は、椎熊の質問に対する大村清一内相の答弁の中で使用されることになる。
 

【7】 ○国務大臣(大村清一君)[中略]  次ニ第三国人ニ依リマシテ、或ハ闇市場ニ於ケル各種ノ好マシカラザル行為ガ頻々トシテ行ハレテ居ルコト、或ハ列車ノ中ニ於ケル暴状、不正乗車、是等見ルニ忍ビザル行為ニ付キマシテハ、国民斉シク不快トセラレ、又是ガ我ガ国ノ治安ヲ攪乱スル一ツノ重大ナ要素デアルト云フ点ニ付キマシテ、多大ノ憂慮ヲ寄セラレテ居リマスコトハ、私共洵ニ恐縮ニ存ジテ居ル所デアリマス、幸ヒニシテ列車ノ暴状ニ付キマシテモ、数次ノ厳重ナル取締ニ依リマシテ、逐次改善ヲ致シテ居ルコトハ明カデアリマス、此ノ点ニ付キマシテハ更ニ鉄道警察力ノ整備ト云フヤウナコトモ致シマシテ、列車内ニ於ケル暴状ハ断然之ヲ根絶スルト云フ所マデ、取締ヲ強化スル決心デ居リマス  尚又露店ノ暴状ニ付キマシテハ、予テ相当ノ取締ハ致シテ居ツタノデアリマスガ、八月一日ヲ期シマシテ断乎タル取締ヲスルト云フ方針ヲ確立致シマシテ、東京、大阪其ノ他ノ大都市ヲ初メ、逐次地方二亙ルマデ取締ノ徹底ヲ期シテ居リマスガ、其ノ実績ハ幸ヒニシテ予期以上ノ効果ヲ収メテ居ルト申上ゲテ毫モ差支ナイト思フノデアリマス、今後一層取締ヲ厳ニシ――又一面ニ於キマシテハ所謂青空市場ノナクナリマシタ為ニ、一般民衆ニ与フル不便ヲ救フ、乃至ハ戦災者、帰還者其ノ他洵ニ気ノ毒ナ人々ガ、青空市場ニ於テ生計ヲ立テテ居ルト云フコトモ少クナイノデアリマス、是等ノ人々対シマシテモ適切ナル方途ヲ講ジマシテ、闇市場ト云フヤウナ不法ナ商売デナク、正業ニ依リマシテ生計ヲ立テル、又一般民衆モ闇市場ニ依ラズシテ、公正ナル市場カラ需要品ヲ容易ニ買ヒ得ルト云フ所ニ目標ヲ置キマシテ、各省協力致シ、ソレ等ノ施策ト相俟チマシテ、闇取引ノ根絶ヲ期スルコトニ邁進スル決心デ居リマス  尚ホ第三国人ノ課税問題、又取締ノ徹底問題ニ付キマシテハ、今日只今ノ所ニ於キマシテハ、裁判管轄ノ点ニ於キマシテ結論ニ達シテ居ナイ点ガアリマスガ、此ノ点ニ付キマシテハ目下政府二於キマシテ極力解決ニ努力ヲ致シテ居リマス、速カニ是ガ解決ヲ致シマシテ、第三国人ハ我ガ国民ト同等ノ機会ニ恵マレマシテ、公正ナル営業取引ヲ致スコトニスルコトガ絶対的ニ必要デアリマスノデ、政府ト致シマシテハ、此ノ点ニ付キマシテ深甚ノ考慮ト遺憾ナキ努力ヲ致シマシテ、国民ノ御期待ニ副フヤウニ努メル決心デアリマス (『官報号外』1946年8月18日、衆議院議事速記録第30号、454〜455頁). 3.本稿の課題・手法の研究史的意義

 本稿の課題・手法の研究史的意義は、次の通りである*25)。
 第一に、「組織された強力」としての律令制国家・古代国家の特性・特徴に、その展開論の立場から知見を提示することである。
 古代国家のかかる特性・特徴に関する知見の提示が、かつて無い重要な社会的意義を有していることは、拙稿Dで述べた。
 研究史的意義としては、古代国家の展開論の立場から、このような提示を行う点が重要である。
 従来、古代国家論においては、国家成立論の意義が国家の一般的性質・機能(「本質」)の問題に直ちにつながるとして、強調されてきた*26)。
 しかしながら、この列島上における「日本」という国家は、九〇年代後半から、自殺者が一四年連続で三万人を超え、二〇一二年も二万七千人を超えるとされる。「うつ」に苦しむ人に至っては一〇〇万人を超えると言われる。
 加えて、東日本大震災・原発事故により多くの被災者が生まれ、さらなる苦難を課せられている。特に、国家的事業として推進されてきた後者の原発事故は、現在及び未来における影響の具体的内容・規模が不明である点で未曾有の大災害であり、世界及び未来に対する責任を我々に突き付けることとなった*27)。
 なぜ、国家がこのような基本的人権の圧殺を行い得るのかは、現在、あらためて問題とならざるを得ないであろう。
 この際、重要なのは、この国家は、あの敗戦によっていったん壊滅し、六〇年代末~七〇年代初頭においては、「怪物」とは言え「手負い」*28)とも見られていたことである。
 前記のような国家による基本的人権の圧殺の問題は、二一世紀初頭の今日においては、「このような四〇~七〇年代の状況にもかかわらず、なぜ、国家がかかる力を有するか」という問題にならざるを得ない。
 とすれば、、国家成立論が提起した「本質」論を踏まえつつも、古代国家の展開論の立場から独自の知見を提示することの意義は昔日の比ではないであろう。
 しかし、主に八〇年代後半から蓄積された古代国家の展開に関する研究は、「事実と理論の緊張関係」を欠いており、このような提示に堪える内容を持たなかった。
 本稿の分析はこのような古代国家論の問題を克服する意義があると考える。
 第二は、「人格的身分的結合関係」の在り方について、一定の知見を提供することである。
 このような知見の提供は、分析対象に「人格的身分的結合関係」を含む以上、当然ではある。
 しかし、多大な成果を挙げつつも問題点として指摘されてきた「首長制」概念の曖昧さ*29)を克服し、律令制国家またその基盤となる共同体・在地社会の歴史的特質を把握する上でも有益と考える。
 なお、当然ながら、この知見は専制・貴族制といった律令制国家の類型的特質の把握についての知見の提示にもつながる。この点も、「人格的身分的結合関係」の前記の特徴である(ア)身分制的差別・(イ)同質性が、かかる特質の表出である以上、当然である。
 第三に、明治期以降に形成され、戦後に至るまで典型的な「古代国家像」として受け入れられてきた、近代国民国家の表象としての「中央集権国家」像の克服に寄与することである*30)。
 このような「中央集権国家」像の特徴の一つは「単一的支配」*31)が徹底しているという認識が大きな位置を占めることであろう。
 例えば、かかる歴史像の先駆の一つとも言える嵯峨正作『日本史綱』*32)(一八八八年)は、孝徳朝以降の基本的特質を「中央政府ノ統制権モ全国ニ及ビ」という点に求めており、これは、律令制国家を「巨大なオートメーションの機械」*33)に例える見解が端的に示すように、戦後にまで継承された。
 そして、この認識においては、(1)生産諸条件の問題、(2)規律の機能の問題が大きな位置を占める。
 (1)については「公地公民」を「私地私民の廃止」とする、現在でも通俗的となっている見解に明らかである。
 (2)についても前述の『日本史綱』は「成文律モ起コリ」と律令制国家における律の制定を特記しており、律令制の特徴を「清新な形式」とともに「整然とした秩序」に求める見解*34)も規律が一定度機能しているという前提に立つものと考えられる。
 本稿で検討する直接生産過程からの分離の問題は、徹底した形では「所有の形態を変える」*35)ものであり、ー直接、生産諸条件を論じるものではないがー(1)を考える上でも重要である。
 (2)は本稿の直接の検討素材である。
 特に、この「中央集権国家」「単一的支配」の衰退は、「私地」たる荘園の発生・「地方支配の乱れ」との認識が端的に示すように、地方において始まるとされていることを考える時、地方の場においてこの二点を素材に律令制国家における「単一的支配」の在り方を把握することは、近代国家の表象としての歴史像の弊害が指摘されている今日、重要な意義を有すると考える*36)。. *37)なお、註(36)前掲の「延暦一七年四月七日太政官符」は遷任国司と新任国司への(エ)経済的特権の剥奪の発動にも、同条を準用している。
*38)関連条文として禄令5応給禄条。
*39)三四三頁、拙稿A参照。
*40)もちろん、(β)「意識の内部の支配」の具体的運用も、即物的数値に過ぎない考中行事と上日によって行われるため、形式化しやすいという問題は指摘されているが(野村忠夫『古代官僚の世界』塙新書、一九六九年、一三一~一三二頁など)、(γ)「単一的支配」に関わる諸制度の問題がしばしば唐令改変の結果であることを考慮すれば、支配層の課題認識における位置付けの差は明白であろうと思われる。
*41)尤も、本稿は「単一的支配」に関わる論点の一部を検討しているだけであり、以下の論点を検討対象から除外している(論点については前章参照)。
 すなわち、(1)分業((b)規律と分業の一部)、(2)成文の法と規則、(3)文書主義((2)・(3)は(c)成文の法と規則及び文書主義)である。
 この(1)~(3)については、「単一的支配」の構築・維持の上でやはり評価すべきである。
 (1)については、「官僚制的労働は、生産部門における分業の一定の発達段階と不可分の関係にある」(三五八頁)こと自体は確かであろう。そもそも分業なしには「原則」自体が成り立たない。
 (2)についても、その意義の大きさは否定し難い。成文法典である大宝律は、前記のように「単一的支配」構築・維持の上で画期的意義を有していた。また、大宝令は行政の「形式化」「中立化」の根拠ともなった。
 (3)文書主義は、近年の口頭伝達の重要性の指摘(註(28)前掲早川・渡辺著書など)にも関わらず、行政を個別的意思から「独立」させる媒介となった点はやはり評価すべきであろう。
 しかし、この内、(2)・(3)については、以下の問題を指摘できる。
 (2)については、行政技術法・実務法たる「式」が、少なくとも『弘仁式』以降の三代式のような整備された形では編纂されなかったことである。この種の法は国家機構運営において不可欠であるが、「補充法」である「格」「式」「例」などは、八世紀においては唐と異なり部分的・便宜的な性格が強かった。これは、官人の「執務そのものは法規以外に従属しないという規範」(三六九頁)が十分に成立していなかったことを示す(「例」及び八世紀の「格」「式」については、虎尾俊哉「『例』の研究ー八十一例・諸司例・弾例ー」〔『古代典籍文書論考』吉川弘文館、一九八二年。初出は一九六二年〕、川尻秋生「奈良時代の格とその特質」〔『日本古代の格と資材帳』吉川弘文館、二〇〇三年〕など参照)。
 したがって、その分、「単一的支配」は弱いと言わざるを得ない。
 (3)については、「人格的身分的結合関係」の秩序による規定が指摘されていること(三七七頁以下)である。したがって、かかる秩序の構築・維持が文書による「単一的支配」に先行していたと考えられる。
 また、(1)についても以下の問題を指摘できる。
 すなわち、単に日本の古代社会が「生産部門における分業の一定の発達段階」に至ったことのみを指摘すれば、その特質・在り方が把握できるわけではない、ということである。例えば、日本律令制国家における四等官間の分業に関する「上下共知」の原則が、唐と異なることが指摘されているが(吉川真司「奈良時代の宣」〔『律令官僚制の研究』塙書房、一九九八年。初出は一九八八年〕)、なぜ、このような現象が生じるかは、石母田の指摘のみで把握できるわけではない。そして、このような課題の追究の結果によっては、(2)・(3)と同様の問題が浮上する可能性もある。
 いずれにせよ、(1)~(3)が(γ)「単一的支配」の構築・維持の上で重要な役割を果たしたことは、「基本的課題」において(α)「人格的身分的結合関係」がそれに先行することを否定するものではない。
*42)大町健「律令国家論ノート」(「第Ⅰ章」註(16)書)。. 庫:FunDay線上英語學習網(臺灣大學專屬平台) · 課程:善用 IEEE Xplore 提升研究競爭力 · 藏香方寸間,微型見臺大- 臺大圖書館館訊第192期. であろう。言い換えれば、国司の「国庫への直接的な依存」(三五三頁)の傾向が著しく強化されたと言える。
 言うまでもなく、それは経済的利益獲得の上での「出挙公廨制」の意義の大きさによる。
 その施行後一〇年余にして早くも現れた「諸国司ら、交替の日、おのおの公廨を貪る」*4)との状況は、その意義を端的に示している。
 しかし、何よりその意義の大きさを端的に示すのは、「出挙公廨制」の廃止措置*5)や、そこでの国司の得分の削減措置*6)が、いずれも短期間に撤回に追い込まれていることであろう。これは、その継続の強行が支配層の分裂・国家機構の破綻を招きかねないことを示している。言い換えれば、もはや、それなしには支配層の結集・国家機構の維持が困難になりつつあるのである。
 平安期には、国司に対して、「出挙公廨制」における得分の配分率による「六分官」(守)・「四分官」(介)といった呼称が生まれることが指摘されている*7)。これは、国司制と「出挙公廨制」、そして地方行政機構と物的給与制度(経済)とが不可分の一体化をなしたことを示している。その端緒は、八世紀後半には成立していたと考えるべきであろう*8)。
 もちろん、「出挙公廨制」はかかる分離を基本的目的とした措置ではないので、律令法の(A)職分田~(D)位田の給与制度は基本的に存続した。しかし、経済的利益獲得の上でのその意義は著しく低下したと考えられる。
 国司の経済的生活が直接生産過程から分離する傾向及びその進行は認めてよいであろう。. を指摘できる。
 次に、表2-A・B・Cについて。
 表2-Bによれば、(1)第Ⅱ期に一三例だった「総事例数」は二一例に、(2)二例だった「×」は五例に、(3)一三例だった「規律発動総数」は一九例に、それぞれ増加している。
 表2-Cによれば、(1)に関わる「年数:総事例数」は「1:1.00」であり、一年あたり一.〇〇の事例を確認できることになる。これは第Ⅱ期よりは事例数の頻度が増加したことを示している。(2)に関わる「規律発動総数:『×』」は「1:0.26」で、規律発動1回に対し「×」が〇.二六回発動されていることになる。これは、第Ⅰ期には及ばないが、第Ⅱ期よりは高めの数値である。また、(3)に関わる「年数:規律発動総数」は「1:0.90」で一年あたり〇.九〇回、規律が発動されていることになる。これは第Ⅰ期を若干上回り、第Ⅰ~Ⅲ期では最高値となる。
 第Ⅲ期の概要としては、(2)「×」についても増加が見えるものの、主に(3)規律発動総数が増加したと考えられる。.  次に、(Ⅱ)地方行政機構の維持・運営の在り方について。
 まず、(β)「意識の内部の支配」の位置付けについては、一定の政策的位置を占めていたとは見られるが、その位置は高いとは言えない。措置の有効性についても、郡司制の内考への転換措置には認められるものの、国司制ではほとんど認められない。
 次に、(γ)「単一的支配」の位置付けについて。
 直接生産過程からの分離については、それが実行された点は第Ⅴ期の特徴だが、短期間で挫折しており、地方行政機構の維持・運営という観点からはその意義を高く評価することはできない。
 一方、規律については、その政策的位置が飛躍的に増加している。
 これは規律の、地方行政機構の維持・運営における主力としての位置が、第Ⅴ期に入って著しく強化されていることを示している。.

の二つを挙げることができる*33)。
 (1)に見える除免官当は、前述のように(ⅰ)除名・(ⅱ)免官・(ⅲ)免所居官・(ⅳ)官当からなる。(ⅰ)除名は対象者を官人の名籍から除く措置で、官位・勲位が六年間剥奪される。(ⅱ)免官は、位階・勲位を三年間、(ⅲ)免所居官は同じく一年間剥奪する措置であり、(ⅳ)官当は位階を以て罪に換える措置である*34)。
 すなわち、いずれも位階の剥奪・降下が行われ、官位相当制の原則から、(ⅰ)~(ⅲ)は勿論、(ⅳ)も現在の官職を解任されるケースが生じる*35)。
 (2)の考課令58犯私罪条の解任規定は、私罪により考課が「下中」、公罪により「下々」となった場合に「並びに解任する」措置である。すなわち、考選制度の一環と言える。
 しかし、これらを本稿で言う(ウ)「解任」と同一視することはできない。
 第一に、職務不履行・服務規定違反を問うべき行政行為が具体化・特定化されていない。
 (1)の発動対象行為の一部を例示すれば、(ⅰ)除名は、監守内の姧・盗・略人など、(ⅱ)免官は監臨外の姧・盗・略人など、(ⅲ)免所居官は祖父母・父母が老疾で侍なき状況での赴任など、(ⅳ)官当は公罪・私罪一般である。発動対象として明確化されている行政行為は「財を受けて法を枉ぐ」(除名)「財を受けて法を枉げず」(免官)に限定され行政一般に及ぶわけではなく、またあくまで公罪・私罪の一部に過ぎない。
 (2)も、直接の前提となるのは考課が「下中」「下々」になったことであって、発動対象となる行為が具体化・特定化されているわけではない。また、解任措置の根拠ともなる「私罪」「公罪」についても同様である。名例律官当条によれば、前者は「(ア)私に自ら犯し、及び(イ)詔に対えること詐りて実を以てせず、(ウ)請を受けて法を枉げたる類」、後者は「(エ)公事によりて罪を致して、私曲なき」とされる。(ア)・(エ)は極めて一般的な内容で対象行為が具体化・特定化されているわけではない。(イ)・(ウ)については、一定度、具体化されているが、「(銭を用いない田の売買につき)検校を加えずして、違うこと一〇事以上」(表2-Aー№8。前述)といった例と比較すれば、抽象度が強いと言わざるを得ない。 
 したがって、(1)・(2)は(ウ)「解任」とは形態が異なっていると考えるべきである。
 第二に、これらの措置は、律令法上の「罪」・「科罪」などに当たらない。
 (1)の場合、解任はあくまで除免官当に伴う付随的現象であり、「罪」「科罪」にあたるのは除免官当それ自体である。
 (2)も、あくまで考選制度・「意識の内部の支配」の一環であり、律令法上、それによる解任が「罪」「科罪」などに該当するかは疑問である。(ウ)「解任」は、支配層の一般的観念のレベルとはいえ、第Ⅰ期の段階で、発動対象行為あるいは措置自体が「罪」と認識されていたが、(2)が律令法上、同様の位置付けを与えられていた可能性はほとんどないと言える。
 以上から、本稿で言う(ウ)「解任」は律令法上は規定されていないと考えられる*36)。

5.小結ー第Ⅴ期の地方行政機構の維持・運営の特徴ー

 以上を踏まえて、第Ⅴ期の地方行政機構の維持・運営における(Ⅰ)地方行政機構の維持・運営における、支配層の「基本的政策課題」と、(Ⅱ)地方行政機構の維持・運営の在り方を、それぞれ把握する。

・(Ⅰ)地方行政機構の維持・運営における、支配層の「基本的政策課題」

 まず、(Ⅰ)地方行政機構の維持・運営における、支配層の「基本的政策課題」について。
 この点については「行政の『相対的独立化』」にあると見てよいであろう。
 何よりも、第Ⅰ~Ⅲ期の「基本的政策課題」であった(α)「人格的身分的結合関係」において、郡司制に関して見出すことができる。
 また、良人共同体・「人格的身分的結合関係」の秩序維持の政策的位置の低下は、第Ⅴ期の全体的傾向と見ることができるが、「行政の『相対的独立化』」と対応関係にあると見られる。
 さらに、第Ⅴ期には「行政の『相対的独立化』」の前提ともなる(α)「人格的身分的結合関係」の職務への規定性の喪失が確認できる。
 (β)「意識の内部の支配」において、このような喪失が見えることは既述の通りである。
 (γ)「単一的支配」においても、同様の可能性は指摘できる。. (1)直接生産過程からの分離ー「出挙公廨制」と律令制国家の(γ)「単一的支配」ー

・地方行政機構における直接生産過程からの分離の、二つの問題

 律令制国家の地方行政機構における(γ)「単一的支配」を考える上で、極めて重要な意義を持つのは、実は直接生産過程からの分離の問題と考えられる(支配層の課題認識との関係については後述)。
 また、かかる分離の媒介は物的給与制度であるが、国司制におけるかかる制度としての意義を持つ「出挙公廨制」は(γ)「単一的支配」の強化の上で、画期的意義を有していたと考えられる。
 しかし、地方行政機構におけるかかる分離については、以下の問題を指摘できる。. (エ)経済的特権の剥奪

 表2-A・B・Cによれば、(エ)経済的特権の剥奪については、第Ⅴ期には一〇の事例を確認できる。これは第Ⅴ期においては、(ア)律の規定・違勅罪~(エ)経済的特権の剥奪の中では(ア)律の規定に次ぐ低い数値になる。
 一年あたりの発動頻度は、〇.三四になる。
 一方、第Ⅳ期の一年あたりの発動頻度は、〇.二七である。
 第Ⅴ期が若干、上回るが、これも既述の第Ⅳ期の数値の変動可能性の大きさを考えれば、必ずしも第Ⅴ期の発動頻度が高いとは言い切れない。第Ⅳ期の事例数が一例増えて四例となれば(実際に確認できるのは三例)、一年あたりの発動頻度は〇.三六となり第Ⅴ期を上回ることになる。
 第Ⅴ期の一年あたりの発動頻度については、第Ⅳ期と同等と見ておくのが妥当と思われる。
 また、内容的には第Ⅲ期から継続する「公廨」の剥奪(№92・99・133)の他、墾田・収穫物の没官(№83・153)などが見られる。国司にとっては厳しい措置と考えられ、事例数こそ少ないものの、その位置付けを過小評価することはできない。. References are memoranda for General Headquarters, Supreme Commander for the Allied Powers, from the Imperial Japanese Government, CLO No. 3.「単一的支配」

(1)直接生産過程からの分離

 律令法における官人の直接生産過程からの分離の検討にあたって、まず問題となるのは(1)物的給与制度*10)である。石母田が述べているように、官人の直接生産過程からの分離にあたっては、その代償として「国家がなんらかの物的給与を彼らに保証すること」(三五〇頁)が必要となるからである。
 しかし、律令法におけるこの問題について第一に指摘すべきは、そもそも国郡司に対する(1)物的給与制度が存在しないということである。すなわち、国郡司制においては、彼らを直接生産過程から分離させるための給与制度は、律令法には存在しないのである。
 もちろん、国郡司に対する給与制度は存在する。しかし、この制度において国郡司に給与されるのは、基本的に耕作地と人であった。耕作地としては、(A)職分田(田令31在外諸司職分田条・32郡司職分田条)*11)が基本であり、それと関連する(B)空閑地の開墾権(同29荒廃条*12)、ー基本的に下級官人である国郡司の場合、支給される者は例外的であったと見られるが*13)ー、内五位・外五位*14)の者に(C)位田が支給された(同4位田条)。人が給与されるのは国司のみであり、(D)事力(軍防令51給事力条)が支給された。
 もとより、律令法にも物的給与制度は存在し、(a)季禄(禄令1給季禄条)、(b)位禄(同10食封条)、(c)月料(職員令42大炊寮条*15))が確認される*16)。しかし、国郡司は(a)(c)の支給対象外である*17)。(b)の支給対象となる国郡司は、内五位・外五位*18)を帯びる者に限られ、前記の(D)位田同様、支給される者は例外的であったと考えられる。従って、一部の例外を除き、国郡司の収入は、(D)事力その他の駆使による*19)、(A)~(C)の耕作・開墾によって得るよりなく、これは直接生産過程そのものであった*20)。
 もちろん、(A)~(D)の保持は、国郡司への任用及び官位の保持を前提とするもので、「私的所有」ではあり得ず、「所有の形態」として「大化前代」から変化していることも確かである。しかし、(a)季禄の支給対象からの国郡司の除外が、唐令改変の結果であることからしても*21)(1)物的給与制度による彼らの直接生産過程からの分離は、律令編纂時の支配層の課題としては、全く認識されていなかったと考えられる。なお、石母田の、「令制国家が、下級官人にたいする俸禄制を確立することによって、生産過程および生産手段からの分離を強行し、国庫への直接的な依存をもたらした」(三五三頁)との理解は誤りである*22)。
 以上のような、支配層の課題認識の想定の傍証として、本稿では(2)私出挙にも注目したい。(2)私出挙は、官人が百姓層の生産過程・経営と結合する媒介であり、従来、天平期以降、律令制国家による禁止対象とされたと考えられてきたのも、このような特質による*23)。かかる(2)私出挙について、どのような措置が取られたかは、支配層の課題認識における、国郡司制における直接生産過程分離の位置を把握する上で有効であると考える。
 (2)私出挙については、律令法において雑令20以稲粟条に規定があり、稲粟の出挙については「ほしいままに、私契によれ。」とあり、国郡司にも発動される。この規定に意義については諸説あるが*24)、ここでは私出挙が言わば、公認されていることを確認したい。すなわち、ここでも官人を直接生産過程から分離させようとする意図は見えず、それは国郡司についても同様と言える。
 以上、律令法における(1)物的給与制度・(2)私出挙の検討からは、国郡司の直接生産過程からの分離は、支配層の課題とは認識されていなかったと考えられる。
 以下、本稿では(1)物的給与制度の分析を基本としつつ、(2)私出挙について適宜、言及していくことにする。

(2)規律

 律令法における、(ア)律の規定~(エ)経済的特権の剥奪の各規律のあり方・機能を把握することにする。

・(ア)律の規定. を指摘できる。
 なお、各規律については次項以下で検討するが、表2-Bによれば「事に随い科断」(表2-Aー№1)、「法により科附せよ」(表2-Aー№5)のような、規律の内容を明示しない、法の発動の一般的表現(以下、「一般的表現」)が五例、確認できることを、あらかじめ指摘しておきたい。

・(ア)律の規定

 前述のように、表1における規律の発動命令三例は、すべてが(ア)律の規定の発動である。
 次に表2ーA・Bについて。
 表2ーA・Bにおいては、(ア)律の規定の発動を明示した事例が二例確認できる((№7*34)・21。ただし、№21は「恩寵」により適用が免除されている)。
 後述のように、このような事例は、第Ⅱ・Ⅲ期には見出せず、第Ⅳ期には見えるのは特殊事例か、あくまで可能性を示すものである*35)。
 したがって、規律発動の個別事例において、(ア)律の規定の発動を明示する事例が確認できるのは、第Ⅰ期の特徴として注目されてよい。
 また、前述の「一般的表現」の中にも、「(罪については)重きを以て論ず」(表2ーAー№6)、「顕戮を加う」(表2ーAー№13)、「節級して罪を科せ」(表2ーAー№14)、といった(ア)律の規定発動の可能性が高い文言を見出せる。そもそも、他の規律の発動数・累積が少ない第Ⅰ期においては、これらの「一般的表現」が実際には(ア)律の規定の発動を示している割合は、他の期に比べて高いものと考えられる。
 第Ⅰ期においては、. Memorandum concerning Applicability of Ordinary Taxes to Non-Japanese Nationals.

庫:FunDay線上英語學習網(臺灣大學專屬平台) · 課程:善用 IEEE Xplore 提升研究競爭力 · 藏香方寸間,微型見臺大- 臺大圖書館館訊第192期. There is no objection to the applicability of local and national ordinary taxation to all non-Japanese nationals except as specified in paragraph 3 below, provided that such taxes are not discriminatory against non-Japanese nationals. 論文博士 氏名 論文名 授与年月日 種類; 長津,美代子: Nagatsu,Miyoko: 中年期における夫婦関係の研究-個人化・個別化. であろう。言い換えれば、国司の「国庫への直接的な依存」(三五三頁)の傾向が著しく強化されたと言える。
 言うまでもなく、それは経済的利益獲得の上での「出挙公廨制」の意義の大きさによる。
 その施行後一〇年余にして早くも現れた「諸国司ら、交替の日、おのおの公廨を貪る」*4)との状況は、その意義を端的に示している。
 しかし、何よりその意義の大きさを端的に示すのは、「出挙公廨制」の廃止措置*5)や、そこでの国司の得分の削減措置*6)が、いずれも短期間に撤回に追い込まれていることであろう。これは、その継続の強行が支配層の分裂・国家機構の破綻を招きかねないことを示している。言い換えれば、もはや、それなしには支配層の結集・国家機構の維持が困難になりつつあるのである。
 平安期には、国司に対して、「出挙公廨制」における得分の配分率による「六分官」(守)・「四分官」(介)といった呼称が生まれることが指摘されている*7)。これは、国司制と「出挙公廨制」、そして地方行政機構と物的給与制度(経済)とが不可分の一体化をなしたことを示している。その端緒は、八世紀後半には成立していたと考えるべきであろう*8)。
 もちろん、「出挙公廨制」はかかる分離を基本的目的とした措置ではないので、律令法の(A)職分田~(D)位田の給与制度は基本的に存続した。しかし、経済的利益獲得の上でのその意義は著しく低下したと考えられる。
 国司の経済的生活が直接生産過程から分離する傾向及びその進行は認めてよいであろう。. Crimson Interactive is not responsible for the accuracy of any of the information supplied by the Bloggers.  ここで【2】の”Non-Japanese Nationals”は、そのまま「非日本人」と直訳されている。ところが【2】の文書が発表された当時、日本政府はGHQの指令を速報する要約文書の中で、以下のように「非日本人」を「第三国人」と言い換えていたのであった。
 

【4】 五、在日本第三国人に対する課税問題に関する件(七・二五) 在日本第三国人は軍人、占領軍に従属する民間人及び最高司令部に依り外交官の特権を認められたものを除き、すべて日本の国税及び地方税を納めねばならぬ。尤も資本税その他の特別税はこの限りのものではないとの趣旨のものである。 (終戦連絡中央事務局総務部総務課『水曜速報』第25号、1946年8月7日、5〜6頁〔影印本『日本占領・外交関係資料集――終戦連絡中央事務局・連絡調整中央事務局資料』第2巻、柏書房、1991年、85頁〕). を指摘できる。

・(イ)「欠失補填」

 表2-A・B・Cによれば、(イ)「欠失補填」については、第Ⅴ期に一二~一三の事例を確認できる*77)。これは(ア)律の規定・違勅罪~(エ)経済的特権の剥奪の中では、違勅罪・(ウ)「解任」に次ぐ三番目に高い数値となっている。
 一方、第Ⅳ期には准ずる例が一例確認できるだけで、基本的には発動数は〇である。
 (イ)「欠失補填」については無意味なので発動頻度の析出は省略するが、第Ⅴ期における発動数・頻度の著しい増大は明らかである。
 本来、(イ)「欠失補填」は表2-A・B・Cには収載されにくい規律であったが、にもかかわらず発動数・頻度が著しく増大したのは、従来、発動されなかった「官物の犯用」(№87)、「正倉の焼失」(№92)などに発動範囲が拡大されたからである。これは前項の直接生産過程からの分離とも関わる国府財政の維持・再建の重視を示している。
 同時に、それは(イ)「欠失補填」の法的整備の進行でもあり、これが『延暦交替式』の編纂と八〇三年(延暦二二)の施行につながることは周知の通りである。
 また、(イ)「欠失補填」の前提となる交替制度についても、七九七年(延暦一六)頃の勘解由使設置、八〇〇年(延暦一九)頃の付与解由状の成立など、整備が大きく進行したことが既に指摘されている*78)。
 以上のように、第Ⅴ期の国府財政の維持・再建重視により(イ)「欠失補填」の位置が非常に上昇していることを指摘できる。. を指摘できると考えられる。

・(イ)「欠失補填」

 表1においても、また表2-A・Bにおいても、(イ)「欠失補填」の発動を確実に命じた事例は見られない。表2-A ・Bに、それに准ずる(あるいはその可能性を示す)事例が二例確認されるだけである。尤も、前述のように、この事例数自体は支配層の課題認識における(イ)「欠失補填」の位置付けを必ずしも示さない。
 しかし、「第Ⅱ章」註(28)で示したように、この時期には正倉の欠失が補填されずに放置されていたことが、正税帳の分析から指摘されている。また、監察手段となる交替制度についても、この時期には特に動きが見られない*36)。
 第Ⅰ期には.

另請參見:

 律においては、職制律を中心として官人の職務不履行・服務規定違反に対する処罰が規定されている。発動される基本的処罰は五罪であるが、官人の場合、贖銅・官当などの換刑と除名・免官・免所居官の付加刑が存在した(官当以下の四つを総称して除免官当)*25)。
 その運用面に疑問の指摘があることは前述の通りだが、律令法の体制においても、国郡司制におけるその発動・機能に疑問の余地を指摘できる。
 すなわち、律発動の前提となる不正摘発体制が弱いことである。律令法における基本的不正摘発機関である弾正台は、唐において対応する御史台に比し地方監察の機能はすこぶる弱体であり*26)、その監察は臨時官である巡察使(職員令2太政官条)*27)によらざるを得なかった。唐制に比し明らかに弱体であり、また、八世紀においてしばしば巡察使の定期的派遣が問題となるように、日本の実情に対応できる体制でもなかった。
 弾正台の地方監察機能の弱さが唐の御史台・監察御史の職掌規定の改変の結果と考えられることからも、律令編纂時の支配層の課題認識においては、国郡司の不正摘発は高い位置を占めていたとは言えず、(ア)律の規定の機能の弱さにつながるものと言える*28)。

・(イ)「欠失補填」. の三点である。
 まず、(ア)について。
 神火事件に見えるように、少なくとも郡司制については、前述のような「人格的身分的結合関係」の秩序の破壊につながりかねない状況が継続しているのにもかかわらず、「人格的身分的結合関係」自体において何ら措置が取られないことは、かかる関係の維持の、支配層の「基本的政策課題」の中での位置付けが低下していることを示すと見ることができる。
 次に、(イ)について。
 前述のように、正倉の火災が「神火」と認識されたのは、良人共同体の首長としての天皇の神的権威を背景にしていると考えられる。したがって、このような明示は正倉・郡制・納税などの認識が、(擬制的とは言え)共同体的タブーから一定度、脱しつつあることを示すと考えられる。
 最後に(ウ)について。
 まず、踏まえるべきは、「中央派遣使」の活動は、良人共同体の構造、天皇と官人・良民との「人格的身分的結合関係」に基づいていると考えられることであろう。
 「中央派遣使」は、本稿でも検討してきた国郡司の監察のほか多様な任務を担うが、代表的な「中央派遣使」である巡察使の律令法上の職掌規定は「諸国を巡り察る」*11)とあるに過ぎない。巡察使においては、この規定が多様な任務・権限の基本的法的根拠である。
 単に「巡り察る」とあるのみの規定が処罰・人事とも関わる広範な権限の根拠となるのは、ー律令制国家の基本的特質を考えればー、それが良人共同体の首長としての天皇に代わって行う行為だからであろう。巡察使に対する郡司の「朝使」(ミカドツカイ)との認識*12)は、このような巡察使の基本的特質を示している。そして、良人共同体の首長としての天皇の位置が権限の根源的根拠となるというこのような特質は、単に巡察使だけの問題ではなく、他の「中央派遣使」も同様と考えられる。
 したがって、その派遣頻度の減少は、良人共同体の構造、天皇と官人・良民との「人格的身分的結合関係」に基づく活動・行政の意義が低下し始めていることを示すと考えることができる。
 ただし、第Ⅳ期におけるこの現象の背景には、六二歳という高齢で即位した光仁天皇を擁する、当時の政権における地方行政の位置付けの問題もあるとは考えられる。しかし、後述のように第Ⅴ期においてもこの現象は継続しており、問題の根本的原因を単に光仁天皇の年齢に帰すことはできない。
 後述の第Ⅴ期の状況をも考慮すれば(イ)・(ウ)は、律令制国家の行政が、「人格的身分的結合関係」の言わば直接的な規定から脱し始めたこと*13)を示していると考えられる。
 そして、それは(ア)に典型的に見えるようなその秩序維持の政策的位置の低下をもたらすと見られる。
 以上の状況を見れば、(α)「人格的身分的結合関係」の秩序維持を「基本的政策課題」と見ることはできない。
 では、この時期の「基本的政策課題」は何であろうか。結論から言えば、特定し難いと考えられる。
 差し当たり、この時期の政府の政策的課題に関する先行学説を参照すると、大略、(1)調庸その他の京上物の確保、(2)「出挙公廨制」、(3)神火事件と正税に関する政策が指摘されている*14)。前述の「人格的身分的結合関係」の政策的位置から考えて、(1)~(3)の基本的政策目的をその秩序維持と見ることはできず、基本的には財政・給与問題と見るべきであろう。
 しかし、「人格的身分的結合関係」の秩序に比べれば、律令制国家の基本的歴史的特質に関わる問題とは言えず、その意義は「財政状況が悪ければ、行政はできない」「給与制度が不健全であれば、官人が労働しない」といった、現代にも通じる一般的なものに留まる。したがって、これらの政策的位置は財政状況・官人の綱紀といった時期的特徴・情勢に左右されやすく、その意味で個別的具体的問題と言える。規律の項で分析した、(イ)「欠失補填」の意義の低下も、-他の規律の状況を考えればー、このような政策の個別具体性の表れと見ることができる。
 仮に、この説に従って、「基本的政策課題」を析出しようとした場合、該当する可能性があるのは(2)・(3)である*15)。
 しかし、(2)・(3)いずれが「基本的政策課題」かといった問題は決し難いのではないか。第Ⅳ期の中の情勢によっても、それらの政策的位置は変化すると見られ、実際、(1)~(3)の相互関連性を具体的に把握するのは、現在のところ困難である。. 〔Ⅶ. 律令制的地方行政機構の展開(5)-七八一~八〇九年(天応~大同期)までー〕

 ここでは、第Ⅳ期の地方行政機構の展開について検討するが、まず、律令制国家の基本的特質を規定すると考えられる良人共同体・「人格的身分的結合関係」の秩序維持の政策的位置について、概況を把握することにする。

1.良人共同体・「人格的身分的結合関係」の秩序維持の、政策的位置の低下

 第Ⅴ期の特徴は、良人共同体における「人格的身分的結合関係」の秩序を維持するという課題の政策的位置が、低下していることである。
 この点を端的に示すのは、七八九年(延暦八)に発令された良賎通婚の結果、生まれた子どもを良民とする措置*1)である。
 事実上の良賎通婚禁止の廃止であるこの措置は、良賎制とそれを前提とする良人共同体の「人格的身分的結合関係」の秩序維持の根幹に関わる措置であった*2)。「氏族之胤」「公民」が「賤隷」「奴婢」となることを防ぐために取られたこの措置では、賎身分が存在して初めて存在し得るという良民身分の本来の特徴はもはや踏まえられていない。
 当然ながら良人共同体の秩序維持という課題認識も希薄になっている。
 同様の状況は、天皇と良民との「人格的身分的結合関係」の媒介でもある班田制の遅延にも見ることができる*3)。
 (1)第Ⅴ期に入っての最初の班田は、六年一班の原則からすれば七八五年(延暦四)であったが、一年、遅延して七八六年(延暦五)の実施となり*4)、(2)次の七九二年(延暦一一)の班田に当たっては、京畿の女子・奴婢の口分田班給が減額・停止された上*5)、班田も翌年の七月まで持ちこされ*6)、(3)次の七九八年(延暦一七年)の班田は二年間遅延し、八〇〇年(延暦一九年)に実施された*7)。(3)は班年と籍年が一致するという異常事態であったため、翌年に「校班、煩い多し」*8)という理由で一紀一班制が取られ、以後、第Ⅴ期には班田が行われることはなかった*9)。
 (1)については、畿内校田使の設置という積極的理由も想定されており*10)、必ずしも全てが班田の政策的位置の低下を示すわけではないが、口分田の班給による天皇と良民との「人格的身分的結合関係」の成立が滞っていく傾向は見出せる。
 とりわけ(3)による問題の克服であった一紀一班制は、このような関係の成立よりは「煩い」の除去を優先させるものである。そもそも一紀一班制では、一二年ごとに班田を行うことになるので、本来、籍年と班年の一致という問題は克服できない*11)。もちろん、一〇年後の八一〇年(弘仁元)に班田が行われた*12)ことで、班年と籍年の一致という問題は解消されたが、そうであれば「一〇年一班制」とも言うべき措置が取られるべきである。「一紀一班制」という措置自体は杜撰というよりなく、班田の円滑な施行の政策的位置の低下を示すものと考えられる*13)。
 前述の良賎通婚の結果、生まれた子どもを良民とする措置をもあわせて考えれば、良人共同体・「人格的身分的結合関係」の秩序維持という課題の、政策的位置付けが低下しているのは明らかと考えられる。
 同時に、それは賎身分同様、姓を持たず、その対極として超越的神的権威を有する、良人共同体の首長としての天皇制の変質を余儀なくするものであった。必然的に桓武は新たな天皇制の在り方を模索するようになる。ただし、桓武が良人共同体及びその首長としての天皇制の在り方を明確に否定したわけではないことは、遅延されているとはいえ班田制が実施されていることや、その他の施策などから指摘できる*14). There is no objection to the applicability of local and national ordinary taxation to all non-Japanese nationals except as specified in paragraph 3 below, provided that such taxes are not discriminatory against non-Japanese nationals.  まず、(Ⅰ)について。この点については、第Ⅰ・Ⅱ期同様、(α)「人格的身分的結合関係」の分析結果を重視すべきであろう。
 すなわち、(ア)身分制的差別の固定化を支配層の「基本的政策課題」として指摘できる。
 もっとも、このような固定化の唯一の法制化である嫡々相継制の発令は第Ⅲ期初年の七四九年であり、以後、かかる固定化に関する措置は見られない。しかし、(1)内外階制による(ア)身分制的差別の固定化は、前述のように七五七年まで確認できること、(2)神火事件などは第Ⅲ期を通じて、嫡々相継制による(ア)身分制的差別の固定化が維持されていることを示すこと、(3)第Ⅲ期には、後述のような(α)「人格的身分的結合関係」の秩序維持の政策的位置の低下が確認できないこと、の三点からすれば、かかる固定化を第Ⅲ期を通じての支配層の「基本的政策課題」としてよいと考える。
 次に、(Ⅱ)について。
 まず、(β)「意識の内部の支配」の位置付けについて。
 この点については、郡司制の措置に顕著なように未だ一定度、存在していたと考えられる。しかし、国司制の措置に見えるように、第Ⅱ期以上にその政策的位置が低下している側面は否定し難く、また、その動揺の激化への対応措置としての有効性には疑問を指摘せざるを得ない面がある。
 すでに律令法における地方行政機構の維持・運営における根幹とも言える位置は失われていると考えてよいであろう。
 次に、(γ)「単一的支配」の位置について。
 直接生産過程からの分離は第Ⅲ期においても支配層の政策的課題とは認識されていない。
 しかし、規律はその政策的位置を上昇させており、またこれに対応すると見られる新たな展開も見られる。
 (β)「意識の内部の支配」の状況を考えれば、(γ)「単一的支配」の規律が地方行政機構の維持・運営における主力としての位置を占めたと考えてよいであろう。. 「単一的支配」

(1)直接生産過程からの分離

・事実関係

 (1)物的給与制度について。第Ⅳ期においても、律令法に定められたもの以外に物的給与制度としての意義を有するのは、「出挙公廨制」のみである。しかしながら、前述のような対象・目的に変更は見られない*8)。
 
・まとめ
 
 直接生産過程からの分離については、第Ⅳ期においても支配層の政策的課題とは認識されていないと考えられる。

(2)規律

・表1・表2-A・B・Cの概要

 まず、表1について。
 第Ⅳ期には、第Ⅲ期に続き「中央派遣使」に対する規律の発動命令は見られず、発動事例も見出せない。これは前章で述べたような、国郡司監察における規律発動の困難さも影響しているとは考えられる。
 しかし、基本的な要因は前述の「中央派遣使」の派遣頻度・意義の問題と考えられる(詳細は後述)。
 次に、表2-A・B・Cについて。
 表2-Bによれば、(1)第Ⅲ期に二一例だった「総事例数」は一三例に、(2)五例だった「×」は一例に、(3)一九例だった規律発動総数は一六~一七例になっている。数値的にはいずれも減少しているが、第Ⅳ期は一一年間と、第Ⅰ~Ⅴ期中最小年数しかないので、ある意味でこれは当然である。
 次に、これを表2-Cによって把握する。
 (1)と関わる「年数:総事例数」は「1:1.18」であり、一年あたり一.一八の事例を確認できることになる。第Ⅰ~Ⅳ期の間では最高値である。(2)と関わる「規律発動総数:『×』」は「1:0.05~0.06」で、後者の比率は第Ⅰ~Ⅳ期中、最低値となる。(3)と関わる「年数:規律発動総数」は「1:1.45~1.54」であり、一年あたり一.四五~一.五四回、規律が発動されていることを示す。これは、第Ⅰ~Ⅳ期中の最高値であり、それまでの最高値だった第Ⅲ期の発動頻度を超えていることを示している。
 (1)の「総事例数」は一年あたりで第Ⅰ~Ⅳ期中、最高の割合となっているが、(2)・(3)を見れば、これは基本的に(3)の規律の発動頻度が非常に増加したためと考えられる。
 規律の特徴として.  次に国司制について。
 国司制については、具体的な措置が確認できず、詳細を審らかにすることはできない。
 しかし、以上のような「行政の『相対的独立化』」とそれと関連する「人格的身分的結合関係」の意義の変化が、国司制のみにおいては生じないとは考えにくいであろう。
 第一に、これらと照応すると見られる「良人共同体の秩序維持の政策的位置の低下」(前述)は律令制国家の基本的特質と関わる問題であり、国司制のみ無関係であるとは想定し難い。
 第二に、第Ⅷ章で述べるように、これらは規律に端的に見えるような、地方行政機構の維持・運営の在り方の「非人格化」の傾向と関連する。第Ⅴ期には国司の職務(交替政)執行のための法典でもある*35)『延暦交替式』が編纂されており、これらと連動すると見られる。
 以上から「行政の『相対的独立化』」(及び「人格的身分的結合関係」の意義の変化)は国司制においても生じていると想定される。

3.「意識の内部の支配」

(1)第Ⅴ期における「意識の内部の支配」の状況

 まず、第Ⅴ期における「意識の内部の支配」の状況を確認する。
 国司制について。
 第Ⅴ期においては(ⅰ)天応元年(七八一)六月戊子朔条*36)、(ⅱ)延暦五年(七八六)四月庚午条、(ⅲ)延暦一八年(七九九)一一月甲子条*37)などに、国司の経済的利益の追求・綱紀の弛緩の糾弾が見える。後述のように、これらの事例においては昇進に関わる措置が取られており、一定度、問題視されたことが分かる。
 郡司制については、(ⅰ)神火事件、(ⅱ)任用辞退が確認される*38)。(ⅱ)については詳しくは後述するが、七九九年(延暦一八)に在地首長層が郡司任用を辞退し、「郡務の闕怠」が生ずることが問題視された事態である*39)。
 ただし、後述のような「意識の内部の支配」の政策的位置付けの変化もあり、これらの事態がどこまで本当に問題視されたかは疑問の余地がある。例えば、郡司制の(ⅰ)については、対応措置は(イ)「欠失補填」によっており、基本的に財政問題と看做されたと見られる*40)。
 それ故、これらの事態を本当の意味で「『意識の内部の支配』の動揺」と看做し得るかは問題が残る。
 ただし、国司制の状況は、権力中枢を占める上層支配層の認識においては、一応、「『意識の内部の支配』の動揺」の範疇には入るものであったと考えられる。そのような事態が広範に広がっていたことは確認できるであろう。
 また、郡司制の(ⅱ)は「意識の内部の支配」の基本目的である「労働への従事」が維持されなくなっていることを示しており、その破綻につながりかねない状況と言える。
 ここでは、とりあえず、このような(1)上層支配層から「意識の内部の支配」の動揺と認識される事態の広範な展開、(2)郡司制において「意識の内部の支配」が破綻しつつある状況、を確認しておきたい。

(2)国司制における対応措置

 ここでは、国司制における対応措置を検討する。
 かかる措置として確認できるのは、昇進のみである。
 桓武即位直後に発令された前項の(ⅰ)では、「姧濫尤も著しき者」の「貶降」と「事を処すること公正なる者」への「顕官」の賜与が宣言されており、昇進が「意識の内部の支配」の問題の克服の上で、一定度の意義を有する手段と認識されていたことが分かる。
 この昇進の厳格化のための措置として、(a)「中央派遣使」の「訪察」*41)・(b)評定基準の制定が確認できる。
 (a)については、表1に№23・25・26の三例を確認できる。
 №23は前項の(ⅰ)に関わる措置で、前述の「貶降」・「顕官」の賜与を宣言した上で、「その職に在ること、貪残にして状迹濁濫なる者」について、巡察使の「訪察」により「黜降」させるとしたものである。№25の問民苦使は(ⅲ)と関わり、「黜陟を厳しくする」ために派遣されたものである。№26の観察使*42)は、後述の七八六年(延暦五)の「条例」による「貶黜」「顕栄」の賜与を励行するために設置されたものである。
 (b)については、(ア)七八六年(延暦五)の「条例」と(イ)八〇九年(大同四)の観察使の評定基準が確認できる。
 (ア)は一六カ条にわたって定められた国郡司等の評定基準である*43)。(イ)は、これを観察使菅野真道の奏上を受けて改定したものである*44)。
 これらの措置について、以下の特徴を指摘できる。
 第一に、位階制の規定性が喪失しつつあることである。
 まず(a)における№23の詔には「貶降」・「顕官」の語が見える。これは賜与は位階の昇降ではなく、官職の左遷(あるいは解任)・賜与と考えられる。
 前者の「貶降」は、詔では「秩満たずと雖も」行うとあり、本来は「秩満」によって行われるものである。とすれば、当然、官職の転任を指すと考えられ、「貶降」は閑職などの国司にとって利益の少ない官職へ左遷するか、解任することと考えられる。「顕官」は字の通り、官職を指す。
 次に、(b)の(ア)「条例」も、「貶黜」の内容は官職の解任となっている(「前の一条已上に当たる者あらば、年の遠近を限らず、見任を解却せよ。」)*45)。(イ)の評定基準も、(ア)の改訂版である以上、基本的にはこれを踏襲している*46)。
 第二に、財政問題が前面に出ている事例が見えることである。
 この事例は、(b)の(ア)「条例」である。
 この「条例」の制定を命じた詔の冒頭には「諸国の貢れる庸調支度物、つねに未納ありて、こもごも国用を闕く。」とあり、本質的には「庸調支度物」確保のために、この「条例」が制定されたことが分かる。国郡司の評定基準を新たに制定するという事態は、当時の政権にとって「庸調支度物」の確保が重大な意義を有していたことを示すが、この詔の「国用を闕く」との文言や前述の良人共同体の秩序維持の政策的位置の低下を考えれば、これは良人共同体の維持のためというよりは、財政問題の克服を目的とすると考えるのが妥当であろう*47)。恐らく、長岡京造営などの財政支出の増加が背景にあると考えられるが、既述の「郡務」同様、職務執行の維持・円滑な遂行自体が支配層の課題となりつつあることが知られる。
 いずれも、「意識の内部の支配」に対する「人格的身分的結合関係」の規定性が喪失しつつあることを示しており、前述の「行政の『相対的独立化』」と同様の傾向を指摘できる。

(3)郡司制における対応措置

 郡司制については、(A)「試練」*48)・(B)昇進に動きが見える。
 まず、(A)「試練」について。
 第Ⅴ期の特徴として指摘できるのは、「試練」の対象から除外される郡司が見られるようになることである。
 第一は、昇任・復任郡司である。
 七九七年(延暦一六)には少領から昇任した転擬大領が*49)、八〇〇年(延暦一九)には主帳から昇任した転擬主政及び復任者が*50)、上京することが停止された。擬任郡司が上京するのは、「試練」を受けるためであり*51)、その本質的意義は「系譜を申す儀」による「意識の内部の支配」にあることは前述の通りである。すなわち、この措置は初任時に「試練」・「系譜を申す儀」に参加した者を、昇任・復任時にはその対象から除外する措置である。
 理由は、その方が「雑務、済まし易し」*52)ためであり、ここでも「意識の内部の支配」より「雑務」の遂行が優先されていることが知られる。
 第二は、畿内の擬任郡司である。これは後述の(B)-(b)畿内郡司の内考への転換に伴う措置と考えられる*53)。
 次に、(B)昇進について。
 まず、(a)評定基準である。これは国司制では(b)としたものだが、郡司制にも発動されている。
 次に、(b)内考への転換措置である。これは畿内郡司に対して取られたことが確認できる*54)。
 この事例は本項冒頭で郡司制における「意識の内部の支配」の破綻につながりかねない状況を示す事例としたものだが、郡司は外考であるので、
(1)「貽謀」(子孫のための恩典=実際には政治的特権を指すと見られる)
(2)「身が潤うこと」(経済的恩典).

登入│; 加入會員│; 購買點數│; 個人化服務 │. を指摘できる。
 次に、表2-A・B・Cについて。
 まず、表2-Bによれば、(1)第Ⅰ期に二四例を数えた総事例数が一三例と激減していること、(2)第Ⅰ期に一一例を数えた「×」が二例に激減していること、(3)「規律発動総数」は一三例と、第Ⅰ期の一七例から減少していること、を確認できる。
 これを、表2-Cにより見てみると、(1)に関する「年数:総事例数」は「1:0.52」であり、一年あたり〇.五二の事例しか確認できないことになる。これは第Ⅰ~Ⅴ期中、最低値となる。(2)に関する「規律発動総数:『×』」は「1:0.15」となり、当然ではあるが、第Ⅰ期に比べ後者の比率が大幅に下がっていることが確認できる。(3)と関わる「年数:規律発動総数」は「1:0.52」であり、一年あたり〇.五二回規律が発動されていることになる。これも第Ⅰ期から減少している。
 まず、(1)の事例数・一年あたりの比率は、国内行政の諸問題につき中央政府が監察手段・規律の発動によって対処する事例が、第Ⅱ期においては非常に希少であることを示している。また、(2)によれば、その基本的原因は「×」の発動の激減によることが分かる。一方、(3)は「×」の激減にもかかわらず、規律の発動数が増加することはなく、むしろ低下していること、を示している。実際、一年あたり〇.五二回という規律発動頻度は、第Ⅰ~Ⅴ期中、最低値である。. を指摘できる。
 なお、各規律については次項以下で検討するが、表2-Bによれば「事に随い科断」(表2-Aー№1)、「法により科附せよ」(表2-Aー№5)のような、規律の内容を明示しない、法の発動の一般的表現(以下、「一般的表現」)が五例、確認できることを、あらかじめ指摘しておきたい。

・(ア)律の規定

 前述のように、表1における規律の発動命令三例は、すべてが(ア)律の規定の発動である。
 次に表2ーA・Bについて。
 表2ーA・Bにおいては、(ア)律の規定の発動を明示した事例が二例確認できる((№7*34)・21。ただし、№21は「恩寵」により適用が免除されている)。
 後述のように、このような事例は、第Ⅱ・Ⅲ期には見出せず、第Ⅳ期には見えるのは特殊事例か、あくまで可能性を示すものである*35)。
 したがって、規律発動の個別事例において、(ア)律の規定の発動を明示する事例が確認できるのは、第Ⅰ期の特徴として注目されてよい。
 また、前述の「一般的表現」の中にも、「(罪については)重きを以て論ず」(表2ーAー№6)、「顕戮を加う」(表2ーAー№13)、「節級して罪を科せ」(表2ーAー№14)、といった(ア)律の規定発動の可能性が高い文言を見出せる。そもそも、他の規律の発動数・累積が少ない第Ⅰ期においては、これらの「一般的表現」が実際には(ア)律の規定の発動を示している割合は、他の期に比べて高いものと考えられる。
 第Ⅰ期においては、. 5 撰寫一則引言
第二章 研究方法的撰寫
2.  まず、(Ⅰ)について。
 この点については、第Ⅰ期同様、(α)「人格的身分的結合関係」の分析結果を重視すべきであろう。
 すなわち、(Ⅰ)地方行政機構の維持・運営における、支配層の「基本的政策課題」として、(Ⅰ)’(ア)身分制的差別の強化・固定化傾向の形成・固定化、を指摘できる。
 これは、支配層の「基本的政策課題」の第Ⅰ期からの変化を示すが、両者は連続的に捉えるべきであろう。内外階制・「譜第」の系譜意識とも、(イ)同質性・ディスポティシズムの原理を前提としており、第Ⅱ期の「基本的政策課題」はそれへの編成が国郡司に浸透して初めて成立する。
 第Ⅰ期における「基本的政策課題」の一定の達成を踏まえて、律令制的な(ア)身分制的差別が新たに展開したのが第Ⅱ期と見ることができる。
 次に、(Ⅱ)について。
 まず、(β)「意識の内部の支配」について。
 結論から言えば、その根幹としての位置は揺らいでいると考えるべきであろう。
 第一に、この時期には(β)「意識の内部の支配」自体の動揺が確認されるようになる。
 その原因については、現在、審らかにはし得ないが、(α)「人格的身分的結合関係」の律令制国家における位置付けから見て、その根本的原因は、(α)「人格的身分的結合関係」における(ア)身分制的差別の強化・固定化傾向の形成・固定化にあると見るべきであろう。
 第二に、その政策的位置は低下している。
 第三に、有効な措置が取られることもなかった。
 以上は、律令法における(α)~(γ)の関係に基づく地方行政機構の維持・運営が通用しなくなってきていることを示している。
 次に、(γ)「単一的支配」についても、その強化と関わる動きはあるものの、新たな展開が示されず、むしろ政策的位置が低下していると考えられる。
 直接生産過程からの分離については、依然として支配層の政策的課題として認識されているとは言えない。
 規律については、一定の政策的位置は占めていたと考えられるが、その位置は低下し、また新たな展開は見られない。. の在り方の把握である*12)。
 (ア)身分制的差別は、その名の通り、「人格的身分的結合関係」における身分制的差別を指し、(イ)同質性とは、(ア)身分制的差別にもかかわらず、天皇の前では臣下として同一平面におかれるという意味での「同質性」を指す。この二点は、律令制国家における「人格的身分的結合関係」の基本的特徴をなすと考えられ、その在り方の把握の深化は、「人格的身分的結合関係」の特徴の把握の深化につながると考えられる。
 ただし、国司制については(ア)身分制的差別・(イ)同質性ともに独自の措置は見られず、官位相当制に編成された一般官人に対する措置が発動されたと考えられる。したがって、本稿ではこのような一般官人に対する措置についての先行研究を可能な限り援用して、その傾向の把握に努めたい。

(2)(β)「意識の内部の支配」

 「意識の内部の支配」とは. 第一章 如何撰寫引言
1. を指摘できると考える。


*1)基本的に、令の引用は日本思想大系本(岩波書店、一九七六年)に、律の引用は『訳註日本律令』(東京堂出版)による。
*2)律令制国家における五位と六位以下の区別については、さしあたり、虎尾達哉「律令官人社会における二つの秩序」(『律令官人社会の研究』塙書房、二〇〇六年。初出は一九八四年。以下、虎尾〔達〕A論文。)、「律令官人社会における二つの秩序」(『律令国家史論集』塙書房、二〇一〇年。以下、虎尾〔達〕B論文)など参照。なお、虎尾(達)の見解は以下、基本的にこの両論文による。
*3)和銅元年七月乙巳条。
*4)虎尾(達)前掲A・B論文。
*5)拙稿C参照。
*6)拙稿C
*7)三六〇頁以下。
*8)ただし、以上の昇進について、国郡司制の場合は、(a)官職ごとの評定の評価基準の点で一般官人と異なる特徴がある。
 まず、郡司制については「最」規定が存在せず、考課令67考郡司条に独自の四等の考第基準が設けられた(他に戸令33国守巡行条に郡領の能不規定がある)。これは、外位であることによると見られ、「人格的身分的結合関係」において独自の形態をとることが本質的原因と考えられる。
 次に、評価基準の明確化がさらに徹底していることを指摘できる。すなわち、考課令54国郡司条(同55増益条)は、戸口・熟田の増減によって、国司の掾以上、郡司の少領以上の考課を上下すべき旨を規定している。戸口・熟田の増減は、「善」「最」基準と比べても、極めて具体的・即物的基準であり、その意味では一般官人以上に評価基準が明確化していると言えよう。
*9)拙稿「郡領の『試練』の意義ー早川庄八説の意義と課題ー」(以下、拙稿E)参照。ただし、以上の昇進・位階制の位置付けは律令制国家の「意識の内部の支配」における制度的な位置付けの問題に過ぎない。すなわち、郡司が外位を忌避し内位に固執していることが指摘されており(大町健「律令制的外位制の特質と展開」〔「第Ⅰ章」註(15)書。初出は一九八三年〕)、このような制度的位置付けとは別に、現実の在地首長層の内面においては、内位自体の保持が在地首長層にとって重要な意義を有したと考えられる。
*10)なお、本稿での給与は基本的に「支給し与える。また、その物」といった意味で、必ずしも労働対価としての「給料」の意味ではない。「第Ⅲ章」註(25)参照。
*11)ただし、大宝令においては、国司(及び大宰府官人)へ支給される田地は「公廨田」とされていた(郡司および太政大臣以下の職分田は「職田」。後者は養老令では田令5職分田条に規定されている)。
 この「公廨田」の「公廨」については、(ア)官衙経費に充てられる経済的実態と見る立場(渡辺晃宏「公廨の成立ーその財源と機能ー」〔『日本律令制の構造』吉川弘文館、二〇〇三年〕)、(イ)母法である唐令との継受関係を重視し、「官衙官庁の舎屋およびその収納物」としての意義を強調する立場がある(磐下徹「郡司職分田試論」〔『日本歴史』七二八、二〇〇九年〕一一五頁以下。山本祥隆「出挙未納と公廨」〔『国史学』二〇一、二〇一〇年〕も同様の立場。なお、(イ)の用法は(ア)の前提ではあるが、(ア)では、より「経済的実態」としての側面が強調されている)。
 いずれにせよ、国という行政機構の維持が前面に出た名称であり、国司個人への給与という側面は言わば二次的な位置付けになっていることになる。
 とすれば、後述のような(1)物的給与制度による国郡司の直接生産過程からの分離という課題認識は、大宝令編纂時にはますます存在しなかったと見るべきであろう。
 なお、以下、渡辺・山本の見解はこの論文による。
*12)同条「それ官人、所部の界内において空閑地ありて、佃ることを願えば、任に営種することをゆるせ」。なお、大宝令文は養老令文と異同があると考えられるが、この種の開墾権規定の存在は否定されていない(服部一隆「大宝田令荒廃条の復原」〔『班田収授法の復原的研究』吉川弘文館、二〇一二年。初出は二〇〇六年〕など参照)。
*13)内五位は、官位相当制によれば、大国・上国の守のみであり、外五位は大宝官位令の規定では郡司になるが大国・上国の守以上に希少と想定される。
*14)外五位への位田支給については、律令法に必ずしも明確に規定されているわけではない。しかし、「神亀五年三月二八日太政官奏」(『類聚三代格』巻五)に外五位への位田支給について定められているが、その根拠は「禄料の色、未だ処分あらず」であり、史料上、「禄料」とはあるものの、位田についても「処分あらず」という状況であったと見られる。したがって、外五位が支給対象から明確に排除されていたわけではないと見られる。このため、本稿では外五位が位田の支給対象に含まれるものとした。なお、同奏以後の位田支給については、田令4位田条の令釈・古記によれば同奏の「内位の禄料、半を減じこれを給え」が発動されるようであり、とすれば内位の半分とは言え外五位にも位田が支給されることになる。この解釈に従えば大宝令においても外五位に位田を支給するのが令意であった可能性が高い。
*15)同条の「諸司の食料の事」が月料に当たるとされる(早川庄八「律令財政の構造とその変質」〔「第Ⅰ章」註(20)書。初出は一九六五年〕)
*16)律令制国家の給与制度の研究史については、山下信一郎「日本古代給与制度研究の回顧と展望」(『日本古代の国家と給与制』吉川弘文館、二〇一二年)など参照。
*17)(a)は、支給対象が給禄条に「凡そ在京文武職事」と明記されていることから、国郡司が支給対象外であったことは明らかである。(c)について、国司が支給対象外であることは、長山泰孝の指摘がある(「徭役と給糧」〔『律令負担体系の研究』塙書房、一九七六年〕一一六頁)。大炊寮の支出であることからも、郡司も同様と見るべきであろう。
*18)外五位への位禄の支給についても、位田同様、律令法には明確な規定は存在しない。しかし、註(14)前掲の「神亀五年三月二八日太政官奏」において(1)「禄料の色、未だ処分あらず」(前記)とあり、位田同様、支給対象から明確に排除はされていなかったと見られること、(2)「内位の禄料、半を減じこれを給え」(前記)と規定されており、位禄については外五位が支給対象とされたことは確実なこと、からすれば、律令法においても外五位は(b)位禄の支給対象に含まれると想定されていたと見られる。
*19)なお、九世紀半ばと考えられる、福島県いわき市の荒田目条里遺跡2号木簡によれば、郡司職分田の田植えが、里刀自以下の三六名の「田人」に命じられている。同木簡については平川南「里刀自論」(『古代地方木簡の研究』吉川弘文館、二〇〇三年)、磐下註(11)論文など参照。
*20)なお、大宝令制下では田令公田条の公田地子が太政官送進されなかったとする説(虎尾俊哉「公田をめぐる二つの問題」〔『日本古代土地法史論』吉川弘文館、一九八一年。初出は一九六九年〕など)では、国司に「公廨」が給与されていたとされるが、この説は否定されている(鎌田元一「公田賃租制の成立」〔『律令公民制の研究』塙書房、二〇〇一年。初出は一九七三年〕、亀田隆之「公田地子の太政官送進」〔『奈良時代の政治と制度』吉川弘文館、二〇〇一年。初出は一九七二年〕など)。ただし、近年の渡辺論文では、以上の研究状況を踏まえた上で、国司への「公廨」支給が指摘されているが、これについては後述。
*21)給禄条対応唐令条文(復旧第一条)には「諸て、百官毎歳の禄。外官は一等を降せ。」(仁井田陞『唐令拾遺』東京大学出版会、一九三三年)、復旧第四条には「諸て禄、外官は籤符到る日により給え」とあり、唐においては地方官(外官。但し、前者に「一等を降せ」とあるので中央官人より減額されるようである。)を含むすべての官職(百官)が支給対象となったことは明らかである。なお、築山治三郎『唐代政治制度の研究』(創元社、一九六七年)など参照。
*22)大部分が六位以下の下級官人である地方官人の直接生産関過程からの分離が未徹底であることは、石母田も認識しているが(三六六~七頁)、(a)季禄の支給対象を「すべての官人」(三五一頁)とするように、給与制度における国郡司の独自の在り方は踏まえられていない。
*23)この措置を私出挙の全面禁止政策と見る従来の見解は否定されており(梅村喬「いわゆる私出挙禁止令の理解について」〔『日本古代社会経済史論考』塙書房、二〇〇六年。初出は、一九九一年〕。なお、私出挙に関する氏の見解は全て同論文による)、問題となるのは私出挙自体ではなく、上級官人のそれによる百姓層の経営破壊であるとされている。なお、三原康之「村落社会の展開と農事慣行」(『歴史学研究』八五九、二〇〇九年)なども参照。
*24)同条自体については、差し当たり村尾次郎『律令財政史の研究』(吉川弘文館、一九六一年)二八八頁以下参照。出挙制に関する一九九〇年までの研究史については、小口雅史「日本古代における『イネ』の収取についてー田租・出挙・賃租論ノートー」(『古代王権と祭儀』吉川弘文館、一九九〇年)など参照。近年の研究としては三上喜孝「出挙・農業経営と地域社会」(『歴史学研究』七八一、二〇〇三年)、同「古代東アジア出挙制度試論」(『東アジア古代出土文字資料の研究』雄山閣出版、二〇〇九年)など参照。
*25)名例律官当条~免所居官条。なお、除免官当については、以下、基本的にこれらの条文による。
*26)弾正台についての近年の研究としては、佐藤全敏「弾正台と日本律令国家」(『日本史研究』六〇一、二〇一二年)などを参照。地方監察機能については、福井俊彦『交替式の研究』(吉川弘文館、一九七八年)なども参照。なお、福井の見解は基本的に以下、同書による。
*27)巡察使を含む中央派遣使に関する近年の研究としては、市大樹「朝使派遣と国司」(『文化財論叢Ⅲ』奈良国立文化財研究所、二〇〇二年)など参照。
*28)なお、従来、特に意義が強調されてきた国郡司への監察手段として公文監査がある(福井俊彦前掲書、五一頁以下など参照)。また、調庸などの輸納については、この中の民部省勘会制の意義が特に注目されてきた(福島正樹「中世成立期の国家と勘会制」〔『歴史学研究』五六〇、一九八六年〕、梅村喬『日本古代財制組織の研究』吉川弘文館、一九八九年など)。
 しかしながら律令法及び八世紀後半までの律令制国家における「単一的支配」の前提としては、重要な意義を持たなかったと考える。
 その主要な根拠は、公文監査が基本的に、事実上、規律と連動しないと見られることである。
 すなわち、(1)正税帳によって把握できる正倉の欠失については、少なくとも天平期までは放置されていたことが既に指摘されており(早川「第Ⅰ章」註(20)論文、二七~八頁、註(19)など)、(2)調帳・庸帳(倉庫令(10)調庸物応送京条)によって把握できる調庸の違期・未進についても、規律が発動されるのは宝亀(第Ⅳ期)以後である(表2-Aー№67・70など。福井前掲書、一一六頁以下)。
 なお、(2)については№67・70では「坐せよ」「科決」といった「一般的表現」(後述)が用いられており、(ア)律の規定の明確な発動は大同期以後(表2-Aー№154)となる(№70では「除名」が発動された可能性があるが、それは「官物の隠截」を対象としており調庸の違期・未進ではない。また後述のように発令当初は明示されていなかったと見られる)。
 以上から、八世紀後半までは、公文の監査によって国内行政に問題が発覚しても、規律を発動して対応を強制する措置は、基本的に取られなかったと考えられる。
 とすれば、この時期までは、公文監査は地方行政機構における「単一的支配」の維持に直接、つながるものではなかったと考えるべきであろう。
 以上は、公文をもたらす「公使」、そして「公使」と中央政府との質疑応答の、律令制国家における意義と関わるものと考えられる。
 「公使」の中で、後世、もっとも重視されたのは朝集使であり(福井前掲書、五六頁など参照)、考課令61大弐以下条において国内の人事・勤務状況を報告するという、地方行政機構の維持・運営の上では根幹とも言うべき機能を担っている点で、その位置付けは律令法まで遡ると考えられる。
 しかしながら、養老令で朝集使の職掌として直接、規定されているのは、この大弐以下条における前述の事項に対する「弁答」のみである。一方、この朝集使は多くの公文も携え上京するが、それに関わる規定は「朝集使に附し、太政官に送れ」(公式令21諸司会式条)のような形で、文書の作成・対勘手続きの中で、いわば間接的な形で触れられているに過ぎない(ただし、大宝令では賦役令貢献物条において貢献物を京上する機能が規定されていたと見られるが、ここで問題とする質疑応答と公文との関係とは関連しない)。
 すなわち、朝集使の職掌において第一義的意義を占めるのは、中央の担当官司の質問に対する「弁答」であり、それがもたらす公文は第二義的意義しか有さなかったと考えられる。このような意義の在り方は、他の「公使」においても同様であったと見られ、七一二年(和銅五)に官人が「律令に熟せず、多く過失あり」との状況が問題となった際、地方に対し第一に要求されたのは「(「公使」が)問に随いて弁答し、礙滞すること得ざれ」(五月乙酉条。表2-Aー№7〔表1ー№6〕))であった。
 以上は、律令制国家において、中央政府と「公使」との、質疑応答が極めて重要な意義を有していたことを物語るものである。質疑応答が口頭によること、口頭伝達が呪術的意義を有していたこと(早川庄八『宣旨試論』岩波書店、一九八九年。近年の成果として渡辺滋『古代・中世の情報伝達ー文字と音声・記憶の機能論ー』八木書店、二〇一〇年)などを考慮すると、これは、国内行政が良人共同体の首長である天皇への奉仕であるという律令制国家の擬制的な共同体構造に基づくものと考えられる。
 そして、前述の口頭伝達の呪術的意義を踏まえれば、質疑応答はそれ自体が意義を有していたと考えられ、必ずしも規律の発動をもたらすものではなかったと考えられる。
 なお、前記の民部省勘会制は主に「格」・「式」など九世紀以降の史料から復元されており、それを律令制国家の本来の国司監察制度の在り方として典型化することには疑問の余地がある。その意義は地方行政機構における「単一的支配」の展開を追究する中で把握すべきであろう。
*29)なお、律令法における基本的処罰規定である律には(イ)「欠失補填」はほとんど規定されていないと考えられる。
 前述のように、本稿における(イ)「欠失補填」は「正倉における官物の欠失を官人(主に国司)が補填する措置」である。
 従って、まず問題になるのは「正倉における官物の欠失」に関連する条文である。
 律における、この問題の基本的関連編目は厩庫律である。その中の「庫」に関する規定が該当するが、ただし、同律で言う「庫」は官庫一般を指し、「官物」もそこに収載された「官ノ物」一般を指す。正倉及びそこに収載された租稲・出挙稲などは、その中の一部として同律の規定の発動を受ける形になる。
 次に問題となるのは「補填」に関する規定である。
 律における「補填」に相当する概念は、「陪填」・「陪償」・「備償」・「備」・「償」・「徴」などであり、主に名例律以贓入罪条にその手続きが規定されている(『訳註日本律令 六』三七一頁、註4)。
 では、厩庫律における「補填」の規定はどのようになっているだろうか。
 現存する日本の厩庫律においては、(1)監臨私自借条に「備償」・「徴」、(2)放散官物条に「徴」、(3)課税廻避不輸条に「陪填」の規定が見える。
 (1)では「官物」を借りた官人が「備償」し得なかった場合、貸し出しを認めた「判署之官」に「徴」する旨が、(2)では「官物」を「散用」した場合には「徴」しない旨が、(3)では、「課税及び官に入るの物」を詐匿して輸さない、あるいは巧偽して濫悪の物を進めた場合に、「陪填」する旨が、それぞれ規定されている。
 しかし、(イ)「欠失補填」の根拠となり得るのは、(1)のみである。
 (2)は、そもそも「徴」しない規定であり、また「散用」は「祀畢り食訖る」の意とあり、同条の「祠祀・宴会に供す」に関わるもので、仮に正倉の欠失に関わるとしても特殊事例とせざるを得ない。(3)は百姓を対象にした規定で、本来、国郡司には発動されず(長山泰孝「調庸違反と対国司策」〔註(17)書。初出は一九六九年〕二二五頁)、また租稲・出挙稲などが発動範囲に含まれるかも疑問の余地がある(日本律は、疏議において唐律の「租調地税之類」という注釈を「調庸雑税之類」と改変しており、「租」が除外されたことが分かる)。
 そして、(1)もー国司が大税借貸して死亡した際の規定を制定する際に準用されているが(表2ーAー№33)ー「官物」を借りた場合の規定であって、これも正倉欠失としては限定された事例と言わざるを得ない。以上は、素材を現存する日本律に限定しているが、仮に唐厩庫律の規定が全て日本律に継受されていたとしても、このような限定的な傾向は変わらない(唐厩庫律の条文を参照のこと)。
 そもそも、(3)の「盗に准じて科罪し、法に仍りて陪填す」との文言が端的に示すように、「陪填」などは「科罪」ではなく、律の本来の趣旨は五罪を基本とした「科罪」にあるから、限定的な事例しか規定されていないのは当然と言えるかもしれない。表2-Aの実例においても、(ア)律の規定が(イ)「欠失補填」発動の根拠として機能している事例は確認できず、後者の法的根拠・淵源としては極めて限定的な意義しか持たないと考えられる(なお、同一事例において、(ア)律の規定・(イ)「欠失補填」双方が発動される〔あるいはその可能性を示す〕事例は、あくまで別個の規律として発動されている〔№14・21・63・115・154〕)。
 以上から、(ア)律の規定においては、(イ)「欠失補填」はほとんど規定されていないと言っても過言ではないと思われる。
*30)福井前掲書など参照。
*31)吉岡眞之「『延暦交替式』二題」(『古代文献の基礎的研究』吉川弘文館、一九九四年。初出は一九七八年)は令文には、本来、「専当」の語はなかったとするが、北宋天聖倉庫令の対応条文には「専当」の語が確認され、唐令・日本令にも存在していたと考えられる。なお、天聖令の引用は『天一閣蔵明鈔本天聖令考証』(中華書局出版、二〇〇六年)による。
*32)福井前掲書など参照。
*33)他に選叙令22職事官患解条、考課令67考郡司条に解任規定が見えるが、前者は病が一二〇日間に及んだ場合など、後者は郡司が考で「下々」の評価を得た場合の規定であって、一般的規定とは看做しがたい。
*34)なお、位階の剥奪期間が終わってからの再叙位については、名例律除法条・選叙令37除名応叙条・軍防令35犯除名条などを参照。
*35)官当については、名例律官当条に「見任を解く」規定が見える。
*36)しかし、(2)については、(ウ)「解任」との一定の関連を指摘することは可能である。というより、(ウ)「解任」の基本的法的淵源はこの(2)の解任規定ではないかと考えられる。
 まず、第一の点について。(2)の解任規定が形態上、(ウ)「解任」に転化するには.

 なお、前述の「一般的表現」については、七例を確認できる。

・(ア)律の規定

 まず、表1について。
 前述のように「中央派遣使」の活動において規律の発動が命じられた事例が二例見えるが、それらは(ア)律の規定かそれを主体とするものと考えられる。
 まず、№9は流罪・除名が発動されており、当然(ア)律の規定の発動である。
 また、№15は「法により科罪せよ」と「一般的表現」が取られているが、国内行政全般が対象となることから、(ア)律の規定を少なくとも主体にしていると考えられる。
 後述の(イ)「欠失補填」~(エ)経済的特権の剥奪の状況を考えれば. 若您具有法人身份為常態性且大量購書者,或有特殊作業需求,建議您可洽詢「企業採購 」。 

退換貨說明 

會員所購買的商品均享有到貨十天的猶豫期(含例假日)。退回之商品必須於猶豫期內寄回。 

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訂購本商品前請務必詳閱商品退換貨原則。 . Memorandum concerning Applicability of Ordinary Taxes to Non-Japanese Nationals.  まず、直接生産過程からの分離について。かかる分離は、第Ⅴ期において短期間とはいえ実行されたが、前述のように詳細を審らかにすることはできない。
 しかし、中核的な問題となる職分田について、(1)禄など物的給与については天皇と官人との(α)「人格的身分的結合関係」の規定性が指摘されていること*80)、(2)田地についても、口分田は天皇と良民との(α)「人格的身分的結合関係」の媒介であること、などを考慮すれば、「人格的身分的結合関係」の秩序に規定されていたと見られる。
 したがって、その停止は給与制度における「人格的身分的結合関係」の秩序の規定性の喪失を示すと見ることが可能である*81)。
 規律についても、それが法の一部である以上は本来、非人格的な支配装置であり(後述)、その政策的位置の飛躍的増大は、官人の職務への(α)「人格的身分的結合関係」の規定性の喪失と見ることは可能と思われる。
 以上から、第Ⅴ期の(1)「基本的政策課題」は(Ⅰ)’「行政の『相対的独立化』」と見てよいと考える。. 〔Ⅶ. 律令制的地方行政機構の展開(5)-七八一~八〇九年(天応~大同期)までー〕

 ここでは、第Ⅳ期の地方行政機構の展開について検討するが、まず、律令制国家の基本的特質を規定すると考えられる良人共同体・「人格的身分的結合関係」の秩序維持の政策的位置について、概況を把握することにする。

1.良人共同体・「人格的身分的結合関係」の秩序維持の、政策的位置の低下

 第Ⅴ期の特徴は、良人共同体における「人格的身分的結合関係」の秩序を維持するという課題の政策的位置が、低下していることである。
 この点を端的に示すのは、七八九年(延暦八)に発令された良賎通婚の結果、生まれた子どもを良民とする措置*1)である。
 事実上の良賎通婚禁止の廃止であるこの措置は、良賎制とそれを前提とする良人共同体の「人格的身分的結合関係」の秩序維持の根幹に関わる措置であった*2)。「氏族之胤」「公民」が「賤隷」「奴婢」となることを防ぐために取られたこの措置では、賎身分が存在して初めて存在し得るという良民身分の本来の特徴はもはや踏まえられていない。
 当然ながら良人共同体の秩序維持という課題認識も希薄になっている。
 同様の状況は、天皇と良民との「人格的身分的結合関係」の媒介でもある班田制の遅延にも見ることができる*3)。
 (1)第Ⅴ期に入っての最初の班田は、六年一班の原則からすれば七八五年(延暦四)であったが、一年、遅延して七八六年(延暦五)の実施となり*4)、(2)次の七九二年(延暦一一)の班田に当たっては、京畿の女子・奴婢の口分田班給が減額・停止された上*5)、班田も翌年の七月まで持ちこされ*6)、(3)次の七九八年(延暦一七年)の班田は二年間遅延し、八〇〇年(延暦一九年)に実施された*7)。(3)は班年と籍年が一致するという異常事態であったため、翌年に「校班、煩い多し」*8)という理由で一紀一班制が取られ、以後、第Ⅴ期には班田が行われることはなかった*9)。
 (1)については、畿内校田使の設置という積極的理由も想定されており*10)、必ずしも全てが班田の政策的位置の低下を示すわけではないが、口分田の班給による天皇と良民との「人格的身分的結合関係」の成立が滞っていく傾向は見出せる。
 とりわけ(3)による問題の克服であった一紀一班制は、このような関係の成立よりは「煩い」の除去を優先させるものである。そもそも一紀一班制では、一二年ごとに班田を行うことになるので、本来、籍年と班年の一致という問題は克服できない*11)。もちろん、一〇年後の八一〇年(弘仁元)に班田が行われた*12)ことで、班年と籍年の一致という問題は解消されたが、そうであれば「一〇年一班制」とも言うべき措置が取られるべきである。「一紀一班制」という措置自体は杜撰というよりなく、班田の円滑な施行の政策的位置の低下を示すものと考えられる*13)。
 前述の良賎通婚の結果、生まれた子どもを良民とする措置をもあわせて考えれば、良人共同体・「人格的身分的結合関係」の秩序維持という課題の、政策的位置付けが低下しているのは明らかと考えられる。
 同時に、それは賎身分同様、姓を持たず、その対極として超越的神的権威を有する、良人共同体の首長としての天皇制の変質を余儀なくするものであった。必然的に桓武は新たな天皇制の在り方を模索するようになる。ただし、桓武が良人共同体及びその首長としての天皇制の在り方を明確に否定したわけではないことは、遅延されているとはいえ班田制が実施されていることや、その他の施策などから指摘できる*14).  最初に、法学者が「第三国人」をどのように定義していたのかを見ておこう。
 

【1】 (4)第三国人 こゝに第三国人といふのは、聯合国民及び中立国民、つまり外国人ではないが、同時に日本人と必ずしも地位を同一にしない、朝鮮人その他の「従来日本の支配下にあつた諸国の国民」(nationals of countries formerly under the domination of Japan)である。強ひていえば解放国民ともいへよう。普通に朝鮮人のほか、琉球人、台湾人が挙げられるが台湾人の地位は未決定なところがある。この第三国人はそれぞれの本国帰還に関して日本裁判所から受けた刑の判決を聯合国最高司令官に再審査して貰ふ特権を有する(一九四六年二月一九日「朝鮮人その他の国民に対して科せられた判決の再審査」に関する覚書、一巻八号司法三)。即ち司法権に関し一部特定の特権を有する。然しその他の点では原則として一般日本人同様、日本の司法権、行政権の下に立ち、特に地方的法律規則に従ふ。即ち外国人一般とは異なる地位にある。金融措置、課税、食糧配給、警察取締り等同様である。[註は省略] (高野雄一「外交官、外国人の一般的地位」『日本管理法令研究』第14号、1947年11月、28〜29頁). 25 July 1646[ママ] 1. 24 研究論文 Research Paper 研究論文 日本企業のコーポレート・ガバナンスと 研究開発投資 ~日本の製薬産業と電気機械産業を.

http://ibook.ltcvs.ilc.edu.tw/books/a0168 ...

3  寫作任務 :  建構一個模式
2

ƛ¸åï¼šè‹±æ–‡ç ”究論文寫作-文法指引,原文名稱:Grammar for the Writing of English Research Papers,語言:繁體中文,ISBN:9575323181.  このような想定の傍証を示すのが、郡司制の動きである。
 まず、前半期における律令制的な(α)「人格的身分的結合関係」の展開の中で、「譜第」という系譜意識が成立し、後半期に入っても郡内に強固な権威を確立していくことは前述の通りである。
 ただし、この「譜第」の意義は第Ⅴ期の支配層には認識されていなかったと見られ、「延暦一七年制」によって「譜第之選」は停止される。この時期の郡司制における「行政の『相対的独立化』」は、前半期から形成されてきた律令制的な(α)「人格的身分的結合関係」の意義をいったん、否定した上で追求されたと見られる。
 しかし、弘仁期に入って、「行政の『相対的独立化』」は「譜第」と結合するようになる。
 まず、八一一年(弘仁二)に(ア)「譜第之選」が復活する*3)。この時の任用基準制度は「まず、譜第を尽くし、その人なくんば、後に芸業に及べ」と、(1)「譜第」・(2)「芸業」と二つの基準を設定するものだった。第二義的基準とはいえ「行政の『相対的独立化』」を示す「芸業」が「譜第」とともに挙げられ、この二つの基準によって郡制・郡司制を運用する形になっているのが特徴である。
 (ア)においては、このような意味で「行政の『相対的独立化』」と「譜第」は結合している。
 さらに、その一〇年後の八二二年(弘仁一三年)には、前述の(イ)「後期擬任郡司制」*4)が成立する。この措置は三年の間、「雑務を歴試」するものであり、「雑務」の遂行を重視している点で「行政の『相対的独立化』」と軌を一にする。
 古文書類の署判から正員郡司が減少し、こちらの擬任郡司制が一般的となることは既に指摘がある*5)。
 しかし、擬任郡司制はあくまで正員郡司への任用を前提としており、(イ)「後期擬任郡司制」もこの点は変わらない。その正員郡司への任用は(ア)が維持されており、「譜第」を第一義的基準としているから、その意味では「後期擬任郡司制」も「譜第」と連動して存在している。
 (イ)においては、このような意味で「行政の『相対的独立化』」と「譜第」は結合していると言える。
 もちろん、「行政の『相対的独立化』」と「譜第」との結合の形態は、(ア)・(イ)ともに異なっており、その具体的在り方も今後、追究しなければならない。
 しかし、大勢としては、両者が結合していく傾向は指摘できよう。
 石母田の指摘を考慮すれば、「譜第」が「行政の『相対的独立化』」の基礎となった可能性を指摘でき、律令制的な(α)「人格的身分的結合関係」の展開を踏まえ、弘仁期以降、郡制における「行政の『相対的独立化』」が進行した可能性を示す。
 とすれば、第Ⅴ期(後半期)における「行政の『相対的独立化』」という「基本的政策課題」も、ー支配層にどこまで認識されていたかは別としてー前半期に展開された(α)「人格的身分的結合関係」を基礎にしていた可能性もあると考えられる。
 もちろん、以上は石母田の指摘と郡司制の推移に関する概括的理解を根拠にした一仮説に過ぎず、断案とすることはできない。
 しかし「八世紀(及び九世紀以降)における地方行政機構の展開過程」を考える上では、無視できない可能性と考える。
 
2.地方行政機構の展開過程と律令制的地方行政機構の特質. この内、(a)石川年足は、前述のように七三九年(天平一一)に褒賞の対象となった人物であるが(表1ー№13)、後に「別式」二〇巻を編纂する*38)。(b)平群広成は刑部大輔*39)、(c)大伴三中は刑部少輔兼大判事*40)の経験を有している。(d)巨勢嶋村も、後に刑部少輔に任じられる*41)。また、(e)大養徳小東人は、養老律令の編纂に参加し、刪定律令の編纂に加わる、後の大和長岡*42)である。
 すなわち、一定以上の法的素養のある人材が多く起用されていることが分かる。
 にも関わらず、前述のような疑問が呈せられていることは、問題が№15の巡察使に留まるものではないこと、「中央派遣使」、そして官人一般の問題であったことを示している。
 次に、表2-A・Bを検討する。
 まず、指摘すべきは第Ⅰ期の「律により科断」(№7)のような表現は姿を消すことである。必然的に、その発動を確実に示す事例は〇例となる。すなわち、第Ⅱ期の特徴として.  なお、表2-Bによれば、「一般的表現」は一~二例である*9)。

・(ア)律の規定

 表1には(ア)律の規定のみならず、規律の発動を命じた事例は見られないが、これは前述の事情によると考えられる。
 表2-A・B・Cには、(ア)律の規定の発動を、(ⅰ)明示する事例(№63)と(ⅱ)可能性を示す事例(№70)が、それぞれ一例ずつ確認できる。
 (ⅰ)は、兵士の糒塩・戎具の欠失につき、職制律公事応行稽留条(「公事不行之罪」)を発動したものである。
 また、(ⅱ)は、『続紀』では「科断」とあるに過ぎないが、『三代格』所収の官符では「解任及び除名」を発動するとある。この内、措置発令時の表現を示すのは前者であろうと考えられる。『弘仁格抄』(三三頁)や『三代格』で同官符に付された標注によれば、後者は『弘仁刑部格』に収載されたことが分かる。恐らく、本来は前者の「一般的表現」で発令され、『弘仁格』編纂時に刑部省官人の便宜のために、発令時の法意が明確化されたか、「科断」の具体的内容が定められたと考えられる。従って、この事例は発令時には(ア)律の規定発動の可能性を示すに留まる。
 しかし、(ⅰ)は軍政であり行政一般に直ちに敷衍できるわけではない。また、前述の№46・47同様、律の規定であることも編目名・条文名も示されず、その引用は取意文に過ぎない。すなわち、発令に当たって律の条文が参照されなかった可能性を示す。
 (ⅱ)は可能性の提示に留まり、第Ⅱ期以来の傾向の継続を示すに過ぎない*10)。
 そもそも、(ア)律の規定の発動を明示する事例は№63のみであり、(ウ)「解任」(及び(エ)経済的特権の剥奪)に比べれば希少とせざるを得ない。
 少なくとも.  この論文の末尾には「四六・一二・二五」と執筆年月日が記されている。つまり遅くとも1946年末までに著者は、上のような定義を「第三国人」という用語に与えていたことになる。しかし1946年末までにGHQや連合国側が「第三国人」に相当する語を使用した事例は確認できない。興味深いのは1946年7月の時点で、GHQの指令中に見られる「非日本人」(Non-Japanese Nationals)という言葉を、日本側が「第三国人」と言い換えている例が存在することである。
 

【2】 466. Imagine同盟サイトへのリンク 、 相互リンク などいろいろ取りそろえておりますよー。 このサイトのトップページ. 2966(EF), 19 June 1946, subject: “Taxation on Foreigners in Japan” and LO 627, 6 June 1946, subject: “Taxation on Chinese Residents in Japan.

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